折り畳む
第三〜十章の、言わば本編における基本構図は、「“彼”」を頂点とする管理者組織と、「ルキッフ」なる者の率いる抵抗組織との抗争です。
管理者は時空間の秩序を守りつつ、宇宙にある知的生命体をより高位に導くべく活動。対してルキッフたちは、そんな一方的管理を全否定、人々に真相を知らせるべく歴史改変を続けるとともに同志を増やすため奔走する。
この中での重要人物は三名。管理者側のアイ、抵抗勢力側のN、そして少し下がって松浦。主に、Nを追うアイという構図です。そこに松浦が絡む。
アイは肉体を持たない超意識体。
Nは、第二章で消息を絶った野々村の、その後。
そして松浦は、二十一世紀半ば、太陽の異常活動によって滅ぶ地球と火星を捨てざるを得なかった地球人の一人。松浦がアイに体も精神も乗っ取られたことで逆にアイの心に影響を与える。という形で、二人の追跡劇にスパイスを加えます。
まあ、そんなこんなで、いろいろ楽しいガジェットの数々(軌道エレベータとか、ブラウン管に宿る幽霊とか、プロトタイプ日本沈没とか、サルならぬネズミの惑星とか、役小角とか、果心居士とか、とかとかとか)を盛り込んだ本編ですが。
妖之佑的には、あらためて読んで、おバカなりに頑張って内容を頭に入れて。
それでもなお、この物語の主人公は佐世子さんだと思います。つまり、一番大切なのは第一、二章を踏まえての佐世子さんの人生を描いた二つのエピローグ。三〜十章は、そこへ至るための膨大なる露払いでしかない。断言します。
ここからは、さらなるネタバレとなります。
反転しておきますから、読んでから怒らないでくださいませ。
初めて読んだときから妖之佑は、エピローグの老人を、第一、二章に登場した大学院生の石田だと考えていました。
が、巷では石田説以外に、野々村説があることを知りました。
ですので、妖之佑なりに考証の真似事をしてみようと思います。ええ、真似事ですよ。
佐世子さんは、失踪した恋人・野々村を待ち続け「いかず後家」となってなお野々村を待って待って、そして生涯を終えた。
なので、佐世子さんが最後の二年足らずを一緒に過ごした身元不明の老人こそ野々村だ、としたい読者の気持ちは理解できます。佐世子さんは野々村の手を握りしめて亡くなった。そう思いたい気持ちは痛いほど判ります。
が。
それでも、あの老人は石田でしょう。
根拠は、スイスのアルプスで発見された日本人らしき若者、「“アルプスの謎の遭難者”」が半世紀の昏睡から醒めたとき、記憶を失っていたものの登山の知識に関しては反応した、という点です。石田は日本アルプスへ登山に出かけたまま消息を絶ちました。つまり、登山の心得があったはずです。
一方で残念ながら、野々村が登山を嗜むという描写は一切ありません。なので老人を野々村だとすると、覚醒した老人が登山の事に反応したという部分がイミフとなります。
もう一つ、状況証拠を挙げましょう。
「“アルプスの謎の遭難者”」は発見されたときアンダーシャツに股引き姿だったと、デイリー・ニューズに書かれてありました。この記事が正しいとして。野々村は、深夜に東京からの緊急の知らせを受けて慌ただしくホテルを後にし、そのまま消えました。出かける際に「大急ぎで服を着た」とありますし、年齢的(1945年の神戸空襲時に「赤ン坊」で、失踪から数年後の外見が「三十前後」)にも股引きをはくとは思えません。ついでに、このときの季節ですが、はっきりとはしませんが古墳周辺に「草むら」や「丈なす草」があったことや、バスタオル一枚の佐世子が「あつい」と言ってホテルの部屋の窓を開けようとしたことから、冬ではなさそうです。ますます股引きが場違いです。
そして繰り返しになりますが、石田は日本アルプスに登山に行ったまま消えました。登山であれば季節を問わず防寒対策は基本です。よね?
ただ。
佐世子さんのために野々村説を唱える人も絶望することは、ないのです。
ある意味、あの老人は野々村でもあるのですから。
石田の失踪は、古墳調査に関わった他の人々同様、時空間の秩序を守るため管理者組織が行った処置に違いありません。
が、処置=殺す、とは限りません。この物語では管理者も抵抗組織も慢性的人手不足に陥っているらしく、見込みのある者をどんどん教育しては戦力として現場に送り込んでいます。抵抗組織側は肉体を持ちますが、管理者側は超精神体、つまり言ってしまうと魂だけの存在です。アイは必要に応じて肉体化したり、ロボットの中に入ったり、あるいは人間の体を乗っ取ったりしてました。
で、石田は 196X年にスイスで発見されてから 2016年までの半世紀を昏睡のまま過ごした。本文中にて「不思議なことに」「ふつうの睡眠より、はるかに深い眠り」と病院のナースに言わせています。これは魂が抜けていたと考えられないでしょうか? その眠っている五十年間(とか言うのも、時空間を縦横無尽に飛び回る者に対して変な表現ですが)、石田の魂は管理者のメンバーとして教育され働いていたに違いないのです。
第二章で同時に消えた野々村を始めとした関係者の人々は、ですが、同じ時系列で失踪後を過ごしているとは限りません。なぜなら、管理者も抵抗組織も時空間を自在に移動できるのですから。なので、Nこと野々村が「新入り」であっても、同じ舞台に登場する他の者まで同じく新人とは限らない。野々村と同じ頃に消えた石田が、とんでもないキャリアを積んでいることだって、ありえるわけです。
で。
野々村を執拗に追いかける者の名は「アイ」。
このアイは単なる名前でしょうか? それとも何かの略称でしょうか? あるいは?
“救出”した地球人の集団を運んでいる途中に、二十世紀ニューヨークの探偵事務所に立ち寄ったアイは、そこでデイリー・ニューズに載ったスイス発信の記事が、なぜか気になってしまいます。そう、あの「“アルプスの謎の遭難者”」が発見された記事です。
過去を失った野々村は「N」を名乗った。イニシャルを仮の名にしたわけですね。
さて、石田のイニシャルはと言うと…………。
妖之佑は、アイこそが石田(の魂)だと考えています。
管理者組織に拉致された石田は、肉体だけスイスの山中に捨てられ(あるいは魂を抜く際に逃走されて、ああなった?)、魂は教育されたうえで実践投入、功績を上げ幹部にまでのし上がったのでしょう。
抵抗組織の「新入り」野々村とで時間にズレがあることに何ら問題がない理由は、上で述べました。
あと、「それなら、第二章の裏側で、アイが石田を、つまり自分を拉致させたことになるのか?」という疑問が出るかとも思いますが。何度も言うように、この物語では時間旅行と多重世界とが共存しています。なので古典的なタイム・パラドクス問題は起こりません。
Nこと野々村を追跡するアイこと石田は、そもそも未来の野々村が過去に作った古墳の玄室のせいで大学院生だった人生を狂わされましたし。その野々村だって、未来の自分自身が過去に作った古墳の玄室のせいで、素敵な恋人を持つ人生を狂わされたんですから(笑)。ついでに言えば野々村は、アイが宇宙人のふりをして「第二十六空間」の火星から松浦たち地球人を拉致したからこそ、この世に誕生し、野々村姓を名乗るに至ったという経緯もあって。つまり、アイが捕まえるべきテロリストを、そもそも生み出したのはアイ自身の行動が原因だったりする。ああ、ややこしい。
超精神体であるアイ(石田)は松浦を取り込み、終盤では松浦の体から抜け、野々村を取り込みます。
その挙げ句に、行ってはならぬ領域まで行ってしまったアイは、その報いとして滅びることとなる。そして、おそらくは「“彼”」によって、滅びゆく肉体すなわち老体の中に「ほうむ」られた。
その結果として、「“アルプスの謎の遭難者”」が五十年ぶりに目覚めたのです。
自らの肉体を離れた石田はアイとして管理者の仕事をこなし、その過程で松浦を肉体ごと乗っ取り、終盤でそれを捨てて、おそらくは肉体を破棄した野々村の精神を取り込んだ。
ですから、目覚めて日本に帰国してから、「何かにひかれるように」葛城山麓を訪れ、佐世子さんの家を通りかかった(第二章にて、野々村はランド・ローバーの窓から鴨野家の外見を見た程度だろうが、石田は戸口にまで行っている)老人は、石田であると同時に野々村でもあるのです。
佐世子さんの半生をかけた願いは叶ったんだと思いますよ。
第十章で展開された御大層な御託の数々など、実はどうでもよく。
エピローグ(その1)にて、老婆にせがまれて夢に見た事を語り始める前、老人が平凡な農家の庭を見回すシーン。これこそが作者の最も言いたかった事だと、そう感じます。小動物や虫や草木の名が淡々と綴られているだけなのに、なぜこんなにも涙が溢れてくるのか…………。
奇しくも、“佐世子さん夫妻”が生涯を閉じたのは 2018年です。
このタイミングで再読することになるとは思ってもいませんでした。いや、年代設定なんて憶えてなかったっつーの。
折り畳む
修正前の版およびコミカライズでは、阿修羅王の闘い(旅)は、さらに延々と外の世界に向かって続く、と解釈できます。
が、修正された版では、これまでの旅も、さらに続くであろう阿修羅王の闘いも、しょせんは「寄せてはかえし 寄せてはかえし かえしては寄せる波」の飛沫の一つに過ぎない、そんな感じがしてなりません。虚しさでは、圧倒的に修正版の勝ちですね。
まあ、雑な所がないわけではないのですよ。
ZEN-ZEN の都市から惑星開発委員会へが、ただ単に地続き。ってのがね。なんで同じアスタータ五○にあんねん? しかも、コミックと違い原作では両者は相互関係を持っていない様子。
ここは、ZEN-ZENシティと惑星開発委員会とが距離的に離れているとしたコミックのほうが「改善」と呼べるレベルでした。ただし、コミック版の都市と首席の設定は賛否両論だと思いますが。
ともかく、あれこれと解釈の違いを楽しめますから、これとコミカライズの両方を読むことをオススメしたいです。
妖之佑の旧友はコミックが先だったせいでか、原作の一部を酷評してましたけどね。「なんで******の**をあそこで出さなかったんだ!(怒)」と。(;^_^A
さて、ここからは念のため反転。
本当は比較したくないのですが。
同時期の作品であり、テーマも「大宇宙全体を舞台にした神と魔の闘い」と似通っているため、やはりどうしても『果しなき流れの果に』との比較は避けられないでしょうね。
簡潔に言いますと。
『百億の昼と千億の夜』は、人がどれだけ必死に抗っても、そんなのは大宇宙の超越者からすれば、塵ですらないほどに小さなものだ、という虚しさを描いていると思います。阿修羅王たちの闘いは MIROKU からすれば蟷螂の斧に過ぎないのでしょう。
対して『果しなき流れの果に』は、そんな一見すれば矮小なものこそが最も大切だと言っている。大袈裟に時空を駆け回って闘っている連中は、そんな大切なものに気づかない、あるいは忘れてしまっている愚か者だ、と。
『百億千億』は「どうせ還れないのだから、もっともっと高みを目指せ」と言い、『果果』は「足元を見てごらん、ほら」と言っている。
だいぶ後に発表された佐藤史生さんの『ワン・ゼロ』は、たぶんこの二作品に強く影響されたんでしょうね。
神×魔の闘いであること。主人公サイドは魔であり、あえて言うなら神が悪役であること。
そして、宇宙全体が「誰かさん」の使うシステムであり、人の視点では“迫りつつある危機”が実は、その「誰かさん」がシステムの不具合を直すべく導入したものであろうということ。
などなど、共通項目が多すぎますからね。
しかも、壮大な闘いのあとには仲間たちのフツーの青春物語が展開されちまう♪(主人公だけは高みに行っちまいますが)