『あるポニテマニアの受難』(前)


作 笑う満月&妖之佑

 
 
 
 
 桜舞い散る、誰もが眠たげな午後のこと。
 弱小芸能プロダクション、ポニーユニオンの会議室。ずらっと円形に並べられたテーブルに、ぽつーんと若い男がひとり。
 スーツもまだ馴染まない新人見習いマネージャ――もちろん専属タレントはない――雪野勝(ゆきのまさる)は、ただひとり、窓一つない殺風景な会議室に詰めていた。
 年度替り直後なのだ、先輩たちは皆、ここぞと営業に回っている。雪野以外の新人も、研修をかねてアシスタントマネージャとして活躍(?)しているはずである――が、雪野だけは社に残っていた。社長命令で。
「しかし東郷さん……本気なんだろうか?」
 社長、東郷重一郎が与えた分厚いファイルを繰りながら、独り言ちてみた。誰も答えるものなどいないのだが。
 ファイルの中身は、まだデビューしていないアイドルの卵達のプロフィール。いや、デビューうんぬんというよりも、おそらくはスカウトさえしていない、どうみても盗撮としか見えない写真ばかり。
 まあ、総じて可愛い娘が多い。
 にやけながらも、雪野はため息をついた。
「本気なんだろうなあ、やっぱり。そりゃあ、僕も好きだけど」
 
 
 入社式の直後、彼だけが社長室に呼び出されていた。
 あごひげもダンディな東郷は、マホガニーのデスクに両肘を突き、こう訊ねたのである。
「君の履歴書、趣味に偽りはないかね?」
 雪野は頷いた。受け狙いなどではなく、率直に、己を偽らずに書いたものだった。
『趣味・ポニーテール鑑賞および保護、さらに普及』
「ふむ。では、もうひとつ訊こう。今のアイドルシーンに足りないものはなにか、わかるかね?」
 新入社員が意見を述べるには分を過ぎたともいえる質問に、雪野は困惑した。
「ヒントを与えようか。中森明菜、岩井小百合、国生さゆりに高井麻巳子、山瀬まみも、そうだったか。そうそう、斉藤由貴を忘れてはならないな――もう、わかっただろう?」
 にやりと口元を吊り上げ、東郷は断言した。
「ポニーテールだ。今の日本に足りないものは。あのモーニング娘。にさえ存在しない」
 そして――マニア二名は、力強く肯きあったのだった。
 
 
「けどなぁ……」
 雪野はふたたびため息をついた。そして、ファイル――盗撮写真集――をパラパラとめくる。
「なんだかなあ……」
 写っている娘たちは確かに可愛い。だが、雪野の心には彼女らの笑顔は届かなかった。なぜなら――
「茶パツに金パツ、この娘なんか、未だに山姥髪だぜ。これじゃあ、燃えないよ」
 再三のため息である。
「失礼します」
 不意に涼やかな声が会議室に響いた。雪野がファイル――盗撮写真集――から顔を上げると、一人の黒髪の女性が入ってくるところであった。
 明らかに新調したと思われる薄水色のツーピースにタンポポを連想させる黄色いスカーフをあしらっている。
 ドアを閉じる際に小脇に抱えた書類の束を落としそうになり、焦って姿勢を崩す。その拍子にずれたノー・フレームのメガネを直す仕草が初々しく感じられた。おそらくまだ二十歳前であろう。
 ――こんな娘、いたっけ?
 この数日で頭にたたき込んだ社員の顔ぶれを脳裏でチェックする。
「企画書のコピーをお持ちしました」
 その女性、いや、娘は頬を上気させてテーブルの雪野に歩み寄った。いかにも張り切った新入社員という感じだ。
「え? 企画…書?」
 雪野は戸惑った。企画書も何も、すべてこれから考えるのだと、さっき社長の東郷から聞いたばかりなのだ。
「はい。新商品開発の」
 ニッコリ笑って答えた娘は、束の一枚を雪野に示した。
 
 
  「大欲張りハンガー」開発企画提案書草稿
          (株)望月ネット 商品企画課
 
 
「望月って……あの、これって望月ネットさんの書類じゃないですか!?」
 この雑居ビルにはポニーユニオンだけでなく、多種多様な会社が入っている。望月ネットはその「ご近所さん」のうちの一軒だった。
「はい、そうですけど?」
 キョトンとする娘。
「ここは、ポニーユニオンの会議室ですよ」
「………………………………………………………………」
 一分ほどの沈黙、そして――
「ええーっ!? そ、そーなんですかぁ!?」
 あまりの素っ頓狂な大声に、雪野は座っていたパイプ椅子から転げ落ちそうになる。
「どどどどーしよォ。――あ、あの、それで、望月ネットの会議室はァ、どっちなんです?」
 すがるように雪野の目をのぞき込む。レンズ越しの瞳を目の当たりにして、雪野は思わず唾を飲み込んだ。
「か…会議室までは知らないけど……望月さんの部屋は、たいがい五階にあったはず――」
「ありがとうございます! それと、失礼しましたァ!!」
 慌てて駆け出していく娘を、呆然と見送る雪野。
 その鼻腔に、なんともかぐわしい香りが残っていた。
「シャンプーの香りかぁ……」
 焦った娘がきびすを返すさい、そのしなやかな黒髪が雪野の顔を撫でたのだった。
「いいなあ、長い黒髪」
 そう呟きながら、雪野は今、娘が出ていった扉の方を、ぼーっと見つめていた。
 テーブル上のファイル――盗撮写真集――のことは、すでに彼の胸中にはなかった。
 どれほど呆然としていたことか。
「こうしちゃいられないっ」
 我に返って、雪野は椅子を派手に鳴らし立ちあがる。艦載機の蒸気カタパルト並のダッシュ力で駆出し扉を開け放ち、さらにトップスピードへと加速する。
 ポニーユニオンの仮フロアは四階、望月ネットは五階。古臭い定員四名のくそ遅いエレベーターを使うよりも、階段のほうがよっぽど早い。当然のように雪野は階段へと向かった。リノリウム張りの廊下、安物プレーントゥのゴム底をグリップさせて急減速、身を翻して階段へ――んどずどごきっ!
「だあああああっ!」「きゃあああんっ!」
 ずっころめぎどひゃずるべりんっ!
 雪野は誰かに突っ込んで、そのままもつれ合って階段を転がり落ちた。
 むににんっと、頬がいい感じ。
「んむぅなにやらブラボーな」
 ちょっと顔を動かしてみる。ナイスな反発力を得た。
「んン……ふゥん」
 甘い声のオマケ付きときたもんだ――
「んどぁおうぇえほぁいをうおぉおあっ?」
 大奇声とともに、雪野は跳ね起きた。自分が人間失格八五%と気がついたらしい。
 組み敷くように、雪野がマウントポジションを取っているのは。
 あの。
 薄水色スーツ+眼鏡のお嬢さんだった。しっかり昏倒中である。
 まさに無防備、これぞ天の恵み――雪野は己の顔を拳骨で殴った。危うく人間失格率が九割を超えるところだった。
「だめだだめだっ、無理やりポニテはポニーテール道に反するじゃないか」
 しかし。
 踊り場に広がった黒髪は美しい。艶やかなこと有明の海苔の如く、しなやかなこと吉野葛の如し。滑らかなこと豚骨スープ、かぐわしきこと宇治茶のよう――すっとんだ思考の雪野勝二十三歳独身ポニテマニア。
「だめだったらぁああああっ!」
 自らにモンゴリアンチョップを乱れ打ち、
「いかんっしっかりするんだ僕っ!!」
 暴走を止めるため、どうしたら自分にパワーボムを食らわすことができるか悩み始めたところで、
「あの。その。眼鏡、どこでしょう?」
 くりっとした瞳が、訴えてきた。
「――――――――眼鏡?」
「はい、眼鏡」
 プラスティックレンズのふちなし眼鏡だからこそ無事だったのだろう、それは割れずに雪野の膝頭前に転がっていた。
 拾って「あ、はい」と手渡すと、「お手数かけますぅ」と彼女は眼鏡をかけた。
 二三度、目をぱちくりと……
「あ、さっき望月ネットさんのフロアを教えてくれた方ですね。さっきは、ありがとうございました」
「あ、いや。そんな、お礼なんて――」
 スプレー塗料でも吹き付けられたかのように真っ赤になり、頭を掻く雪野。
「ええとですね。ちゃんとお礼をしたいのですけれど」
「いや、だからお礼なんて」
「ええっと。ですから……すみません、まず、どいて頂けますでしょうか?」
「いやいや、どいて頂けますでしょうか、なんて……………………うをぅうをっ!!」
 雪野、一転顔面蒼白絶対零度の世界へ。
 そうだった。
 雪野は、まだマウントポジションのままだった。
 対人地雷を食らった勢いで跳ねのく彼。
 花でも生けそうな、もったりまったりとした動作で身を起す彼女。
 ぽんぽんっとツーピースの埃をはたき、歪んだスカーフをくいっと直して。
「すみません。あたし、前、見てなかったんです」
 彼女は深々と頭を垂れた。
「あっいやっ僕の方こそ前なんかっ!」
 雪野もまた、膝に頭突きを食らわすように腰を折る。
「いえ、あたしが悪いんです」
「いやいや、僕がっ」
「いえいえいえ、あたしがっ」
「いやいやいやいや、僕の方がっ!」
「いえいえいえいえいえ、絶対にあたしがっ!」
 頭下げたり下げられたり。
 ひょこぺたとふたつ並んだ鹿威し、互いに跳ね合い奏でるは、こーんこんと雅な音――などではなく騒々しい詫び台詞。
 薄暗い踊り場は、妙なテンションに満ちていった。
「ちょっと、華見さん。たかが追加の資料を取りにゆくだけで、いつまで待たせるおつもり?」
 そんな微妙なバランスを突き崩すかのように、階段の踊り場に響きわたるソプラノ・ヴォイス。
「?」「あ! 蝶乃紋先輩!!」
 ぽかんとする雪野とは対象的に、それまでまったりとしていた娘が、背筋をピンッと伸ばして声の主に向きなおった。
 そんな二人をあたかも天上界から見下ろすかのごとくに、一人の高級スーツ姿の女性が階段上に立っていた。
 ――蝶乃紋麗香! 嫌なヤツが…。
 その嫌味なまでに高そうなカシミア生地の上着(肩パッド入りすぎ)とタイト・スカート(横じわ入り)、ラメ色に光輝くリップ(アフター5じゃねーぞ)、深い色のアイ・シャドゥ(まるで隈だ)、長いまつ毛(マッチ棒載せギネスに挑戦か?)、耳には目がくらみそうなほどに大きなダイヤのピアス(別名、耳たぶ伸ばし器)、そして異様に突き出た胸(噂ではヤ○ザキの肉マン入り、他説ではピザまん)を一瞬に識別して、雪野は口の中で言った。
 このビルに出入りする者で知らぬ者なしのお嬢さまOL、蝶乃紋麗香(ちょうのもんれいか)である。
 なんでも旧財閥のご令嬢で、社会勉強のために普通の、普通の、いい? フツー(!)のOL生活を体験すべく、望月ネットに勤めているそうだ。
 不運なことに、雪野は出社一日目に、このお嬢さまと廊下で正面衝突(よくよく女性にぶつかる男である)してしまい、以後、彼女には目をつけられてしまっていた。
「す…すみません、先輩! 今すぐ――」
「あら、そこにいらっしゃるのは、ポニーユニオンの雪野さまじゃありません?」
 雪野の姿を認めた麗香は、詫びる後輩の言葉を無視し、声をかけた。
「は、はあ、どうも……」
 やむなく、曖昧な笑顔を向ける。
「ごきげんよう。お仕事はお忙しいのかしら?」
「え、ええ、まあ。でも僕は新人ですから……」
「あら、ご謙遜。――そういえば小耳にはさみましたわ。おたくの社長、なんでもポニーティルの似合う美女をお探しとか。そして、雪野さまがその担当者になっておられるそうですわね」
「どっ――っガフッゲフッゴホッ」
 どうしてそれを、という台詞の大部分を喉に詰まらせた雪野は、むせかえってしまった。隣のメガネ娘――華見という名字らしい――が心配そうに背中をさすってくれる。
「大丈夫ですかぁ?」
「あ…ありがとう。――あ、あの蝶乃紋さん、どうしてそれを?」
 雪野の驚いた顔を満足そうに見下ろして、麗香は言った。
「あぁら、あたくしの情報網を過小評価なさってますのね、雪野さまったら」
 上を向き、口もとに左手の甲を当て、オーホホホと笑う麗香。
 そしてすぐに顔を戻し――
「でも、無駄な努力はなさらなくてよろしくってよ」
「え?」
 いぶかしがる雪野。
「このあたくしがポニーティルになって、雪野さまのお役に立ってさしあげますわ」
「げっ」
 思わず声がもれてしまった。
「あら、なんですの? 今のお声?」
「いっいえ、なんでも……それより、蝶乃紋さんだって仕事があるでしょう?」
「かまいませんことよ。ポニーティルの美女となれば、このあたくしを置いて他にはいるはずがありませんものね。これも同じビルにいる者としての助け合いですわ。オーッホッホッホッ」
 ふたたび高笑いする麗香嬢。
 対象的に雪野は全身を小刻みに震えさせている。
 ――こ、こいつがポニーティルだって?
 確かに麗香の髪は美しかった。純粋な日本人であるにもかかわらず、なぜだか艶のあるゴールド・ブラウンの、そして生まれついての滑らかなウェーヴを描く豊かな髪。少女漫画に出てきそうなほどに大きくゆったりとした髪型を立体的に実現しているのは、驚愕に値する。
 が。
 ――ポニーティルが似合うのは、柔らかな黒髪なんだ、絶対に。こいつみたいな髪をポニーにするなんて……するなんて…………。
 キッと階段を見上げる雪野の口から、
「ポニーティルへの冒涜だああああああああっ!!!!!!!!」
 固めた両の拳を天に突き上げ、だくだくと涙する雪野、かたや、麗香は冷静だった。
「あら。あたくしのポニーティルを見てもいないのに、ずいぶんな言い草ですこと」
「見なくたってわかるわいっ」
 敬語も忘れて、雪野は反論した。
「そうかしら? では、あたくしが採用されるかどうか、賭けまして?」
 ふふんっと皮肉な笑みを浮かべる麗香――
「いいだろう、なんでも賭けてやるっ」
「ええとええとええと、こういう時は、どうすれば」
 階段の上と下とでにらみ合う雪野と麗香をよそに、ひとり華見嬢は踊り場を右往左往していた。
「では、なにを賭けましょうか?」
「なんでもいいって、言ってるだろ!」
 麗香はおとがいに指を当て、小首を傾げてなにやら黙考する。ややあって、
「では、なにかひとつ、勝者の命令に絶対服従――いえ、雪野さまには、こんな分の悪い賭けをお請けになる度量はございませんわね、きっと」
 オーッホッホッホッホと嘲笑が階段中にこだまする。
 ここで引き下がれば、男などとは胸張れぬ。
「ぬかせっ誰が逃げるか!」
 雪野に、にっと笑んで返すと、麗香はまだ右に左にうろうろと忙しそうな(無意味なのだが)華見嬢に目をやった。
「では、懸けは成立ということで。聞いてまして、華見さん。あなたが証人ですわよ?」
「ええとええとええと」うろうろ。
 聞いていない。
「華見美花(はなみ・みはな)さん!」
 フルネームを呼ばれ、ぴたっと美花は停止した。
「要点だけ申し上げます。ゆめゆめ忘れないように。あたくしがポニーティルプロジェクトに採用された場合雪野さまはあたくしの言うがままになります」
「……おーい。そうなのでしょうか?」
 自信無さ気な声は雪野のもの。要点を聞かされ冷静になったのか。受けた賭けの重さにいまさら気がついただけなのか。
「そうですわ。な・に・か?」
 きっぱりと頷きもせずに返した麗香に、雪野は反論もなかった。
 一方、美花はこっくりと頷いた。罪のない微笑みまで浮かべて。
「はい、憶えました。雪野さんは、麗香さんの下僕になるんですね?」
「その通りです。よろしい」
 麗香は鷹揚に答え、窮鼠の雪野は、
「……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 小声で呻いていた。
「オーッホッホッホッホッホッホッホッ」
 口元に右手、腰に左手。ふんぞり返って高笑いの麗香――
「面白いことになったな、雪野」
 と。
 ナイスミドルの渋い声――ポニーユニオン代表取締役社長・東郷が、麗香の隣りにいつの間にか立っていた。
 雪野が問う。「社長。いったい、いつ頃から?」
「おまえがヒクソン・グレイシーばりのタックルで、そのお嬢ちゃんのマウントを取ったあたりからだが?」
 雪野の顔から、血の気が引いてゆく。
「最初から……ですか?」
「そうだが? まさか、気が付かなかったか? ということは、それほど存在感があるということだな、その娘と蝶乃紋嬢には」
 顎鬚をさすりながら、東郷は二度三度と麗香と美花を見比べた。
 そして、野太い笑みを浮かべて見せる。
「ふむ――たしかに、面白いか」
 
 
 その夜、安アパートの自室に戻った雪野は、特注額縁に入れて壁に奉ってある、折り鶴を構えた大西結花の特大ポスター様に御神酒と洗い米と水を捧げるという大切な日課すら失念したまま、万年床に倒れ込んだ。
「どーすんだよぉ、自分……」
 悩んでいた。いや、悔やんでいた。
 それはそうである。弱小会社のたかだか新入社員の一般庶民の己が、よりにもよってあの蝶乃紋麗香と賭けをするハメになってしまったのである。
 当然、負けはすでに確定している。
 例えばカラスの色は何色? という勝負で、こっちが黒だの濡羽色だのをとったところで、勝ち目はないのである。白を取った麗香嬢は、きっと世界中のカラスをホワイト修正液で真っ白にしてしまうことだろう。
 まして、ポニーティルが主題とはいえ、要は美人コンテストである。自他ともに認めるお嬢様美女の麗香相手に、いったい誰が、どーやって太刀打ちできるというのか?
「僕の人生……終わった」
 まったくその場の勢い、あるいは弾みとは、恐ろしいものである。
 が、今さら手遅れであった。
「一生、下僕――いや、あの女の下じゃ、玩具扱いかも…………」
 いっそ、女王様と奴隷の関係なら……などという妖しい妄想と願望がわきかけたところで、ブルブルッと頭を振った。
「いかん! 何を考えてるんだ!? 痩せても枯れても僕は崇高なるポニーティル崇拝者なんだぞ!」
 そう言って、壁のポスター大明神を見上げる。
「ポニーティルのためなら殉教しても悔いなんてあるものか!」
 両手を組んで、涙ながらに祈りを捧げる。
「最後まで闘ってやる。見ていてください!!」
 ついに感極まって、五体投地を始める雪野。
 ピン、ピロリポピレッポー(↑)♪
 そんな時、上着に入れっぱなしの携帯が雅な邦楽を奏ではじめた。
「はっ――はいっ、雪野です」
 今ごろ誰だろうと思いながら、耳に当てる。
「こんばんはぁ、雪野さん」
 聞こえてきたのは、どことなく間が抜けていながら、それでいて魅力に富んだ涼やかな声であった。
「華見ですぅ。こんな時間にすみませぇん」
「華見さんっ?」雪野は自分でも声が弾んでいるのを感じた。「どうかしましたっ?」
「えっとですね、今、お暇でしょうかぁ」「とーぜんです!」大切なポニ祈祷の最中だったが、やはり絵に書かれたポニーティルよりは生が良し――もっとも美花はまだ髪をポニにまとめていない。けれども、そんなものは自力でなんとかすれば良いのだ。美花は、最高のポニー素材に変わりない。そのポニーティル美少女(予定)が携帯の向こうで言った。
「じゃあ、ちょっと出てきてもらえませんかぁ?」
 おおおっなんでか誘われたっ!
 歓喜に叫びそうな自分を押さえるため、雪野は携帯片手に踊りまくった。階下の住人には間違いなく騒音とともに天井から埃が降っているだろうが、気にしていられるか。
 ご近所付き合いなど糞食らえ、あとの気まずさよりも目先のデート。
「行きます行きます、どこにでも! なんならコスタリカでもスパルタでもシャンバラでもっ!」
 シャンバラは地上に存在しないが。
「えーっと、そんな外国っぽいところじゃなくて、もっと近いところですぅ」
 携帯を食らわんとする剣幕で、雪野が、
「どこでしょっ!!」
「蝶乃紋先輩の家ですぅ。場所、ご存知ですかぁ?」
 ――こきぃーんっ
「あの、もしもし? 雪野さん?」
 ――ぴきぴきぴきっ
「あの。雪野さーん。えーっと……どうしました? 場所、わからないんですかぁ」
 ――ぱきっ――凍りついた雪野の思考にヒビが走った。
 知ってるってば。あの、あのバタフライキャッスルを知らない人間なんか、この近所にいるもんか……ああああぁぁぁぁ……
 へなへなと崩おれながら、雪野は言った。
「知ってますがぁ……なぜに、そこなんでしょーかー」
 投げやりな口調である。が、美花は気にもしないようだった。
「知りませぇん。ただ、蝶乃紋先輩が、『雪野さまに御電話なさい、華見さん。あなたなら、一発で彼を呼びだせるはずです』って言ったんです」
 なぜか、麗香談の個所だけ歯切れよく、美花は答えてきた。
 ――なるほど、読めたような気がする……雪野は麗香の企みを見切ったような気がしたが。
 自分に選択肢などないことも、承知していた。
「わかりました。じゃあ、三十分以内に伺います」
「はあい。じゃあ、あとで」
「あ、ちょっと待ってください。後ろのお嬢さまに伝言お願いします。この悪魔って」
「了解しました、それじゃ」
 
 
 夕飯をホコリまみれにされ怒り狂う階下の住人の罵声を無視してアパートを後にした雪野は、人通りの全くない夜道をてくてくと歩いていた。
 車がないわけではない。だが、悲しいことに目的地まではさほど遠くもなく、そして何よりも、車で行くのが危険だからである、あのバタフライキャッスルには。
 
 
 つい先日のこと、雪野の学生時代の親友が、蝶乃紋家の噂を面白がり、制止するのも聞かず、自慢の車――R34GT-R改――で乗り付けたことがあった。
 だがバタフライキャッスルに、あたかもトミカタウンのごとくに気軽に、そして無造作に居並ぶ新旧国内外の名車の数々を目の当たりにしたその友人は、全財産をはたいた自分の愛車がプラ板による下手なフルスクラッチ・モデルに見えてゲシュタルト崩壊を起こし、人生観が180度転換。両親が泣いて止めるのを振り切って、せっかく入った一流企業を退職。今はチベットはラサの某寺院で修行の日々を送っている。昨日、絵葉書が届いたばかりだ。
 また、この屋敷を訪れる出前持ちや御用聞きにも、蒸発や自殺未遂者が多発した。
 ゆえに現在、この一帯の店舗は、たとえアルバイトといえど、採用条件に、禅寺でのひと月以上の修行経験を挙げているほどなのである。
 
 
「にしても――」
 ボソボソと独り言を呟きながら歩く雪野。
「こんな時間に呼び出して、何のつもりだ、あのケバ女は……?」
 それよりも、なぜ素直に言われたことに従ってしまうのかを一度じっくりと考えるべきなのだが、今の雪野には、そこまで思考が至らなかった。
「とにかく、美花さんに会える。それでいいじゃないか。うん♪」
 と、自己完結してしまうのである。
「ああ、はやくあのしなやかな黒髪を括りたい……」
 その時であった。
「もぎょおぉっ!?」
 思わず、声がもれてしまった。
 そのまま立ちすくむ雪野。その目の前を、一人の小学生らしい女の子が横切っていく。
 手に黄色いバッグを下げている。おそらく塾帰りなのであろう。だが、問題なのはそんなことではなかった。
「ぽ…ぽにてだ……」
 そう。
 その小学五、六年ぐらいの少女は、自らの柔らかな黒髪を、ポニーティルにしていたのである。しかもピンクのリボンで。
「あ…ああ…………」
 言葉を失う雪野の目の前を通過していくポニー。
 後ろ斜め45度の角度から見える習字の筆のように先端の整った「小馬の尻尾」は、街灯の明かりにつややかに輝き、女の子が歩くたびに、ぼわんぼわんと軽やかに弾んでいる。
 他のすべてを忘れ去った雪野は、少女のうしろを歩きはじめた。
 
 
「遅いですわね、雪野さま。何をしてらっしゃるのかしら? ――華見さん!」
「はっ、はぁいぃ」
 ロココ調の出窓から、うっとりと大庭園の夜景を眺めていた美花は、びくっと振り返った。
 大相撲の横綱が座ってもびくともしなさそうな巨大な安楽椅子に腰掛けた真紅のカクテル・ドレス姿の麗香嬢は、左手のブランデー・グラスを僅かに動かす。
「…………」
 その動作をニコニコと見つめている美花。
 少し眉をつり上げ、再びグラスを動かす麗香。
「…………」
 美花は、微笑んだままだ。
「キィィーーッ! どうしてお判りにならないの!?」
 ついに麗香嬢は立ち上がった。
「もう一度、電話をなさいと申し上げたのですわよ! あ・な・た・に!」
「えぇー、そぉだったんですか?」
 眼鏡の奥の瞳を円くする美花。
「すみませぇん、あたし、手話って知らないものですからぁ」
「しゅっ……」
 絶句する令嬢。
「……ま、まあ、よろしい。とにかく、もう一度、雪野さまに電話をなさい」
「はーい♪」
 だが――
「出ませぇん」
 美花の言葉に、麗香の表情がさらに険しくなる。
「何ですってぇ? このわたくしからのコールに応じないとは、いったいどういうおつもり!?」
「あの〜、電話してるのは、あたしですけどぉ」
「いいからっ、出るまでお続けなさい!!」
「はいぃっ」
 さすがの美花も、この麗香の剣幕に、少しだけしゃっきりと応えた。
 が、何度かけても、呼出音が空しく鳴るだけで、雪野は決して出なかった。
 
 
「止まれーっ! 止まらんと撃つぞーっ!!」「クソッ、逃げ足の早いやつだ」「二人、そっちに回れ!」
 五人の制服警官が二手に分かれた。その手には黒光りするニュー・ナンブM60が握られている。
「絶対に捕らえろ!」「場合によっては射殺してもかまわんぞ」「あんな可愛い子を許せん!」
 ぽにて少女をしつこくつけまわした挙げ句に児童誘拐を目論む変質者と誤解された雪野が必死に町内を逃げまわっている最中だなどとは、美花と麗香の二人には知るよしもなかったのである。

 
 
蔦

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