闇の海辺
 
 
 
作 あおい さくら  

 
 

 
 
 深い闇がイザナミの体を包み込む。
 日の光が届くことなどあるはずもなく、月や星を纏う夜よりも更に暗い、およそ光というもの存続しない黒い闇。その中で長い時を過ごし慣れたはずの瞳ですら、何も見分けることの出来ぬ底なしの闇。
 濃い墨を空気に溶かしたような黄泉の国の闇の中、己の進む道が分かるのは、全身の感覚が研ぎ澄まされ、心の声に従っているからだった。
 風の渡る僅かな音さえも聞き漏らさぬ耳が、遠くに波のはじける音を捉える。
 もう、黄泉の国も外れに近い。黄泉平坂ではなく、生者との世界を大きく隔てるもう一つの境。この国に住まう者には決して越えることの出来ない、果てなく続く海。
 心の声に導かれるままに歩んできたイザナミは、その腐り、蛆虫のついた顔をにこりともさせず、また訝しげにしかめることもなく、一度足を止めた。波の音のする方を見やれば、真っ暗闇のはずの黄泉の空が薄ぼんやりと滲んでいる。例え、それが薄墨のような闇であれ、イザナミの濁った瞳には眩しく写った。
 再びイザナミは足を進めた。葦の茂みを抜けて砂浜に出ると、薄明かりの正体は海そのものであると分かった。「この世」に属さぬ目の前の海は、例え日の光が届かぬ世界でも、黄泉の闇とは違うのだ。
 イザナミは迷うことなくその海に向かった。頽れた足裏で重く湿った砂を踏みしめて歩み、遠い薄墨の海の向こう、遠い一点を見つめたまま、ぴたりと波打ち際で立ち止まった。
 その視線の先に、ぽつりと小さく明かりが灯った。輝くような眩しさに、思わずイザナミは目を細めた。
 否、それは明かりではない。闇に浮き立つ小さな船が、明かりのように輝いて見えたのだ。まだ、「あの世」に属する船は、燃えさかる松明のように揺らめきながら大きくなる。ゆらゆらと、波間を漂いながらこちらに近づいてくる。
 葦の船。
 そうと認め、イザナミは一歩踏み出した。冷たい海の波が足を撫で、逃げるように引いていく。そして、また、波。今度は足元で大きくはじけた。
 船はイザナミの方へ一直線に進んでくる。見えない糸で引かれているかの様に、まっすぐに。危うそうに波に揉まれながら、それでいて微動だにせずに。炎の如くぼんやりとした輪郭は見る間にはっきりと形を取り、葦の一本一本までが手に取るように分かる程になり、そして船底を砂地に着け、中をさらけ出すかの様にイザナミの方に傾いで船は止まった。
「ほんに、よう……」
 イザナミは小さく呟き、船の縁にそろそろと白骨の覗いた指をかけた。縁を押さえ、中を確かめるとイザナミは破顔した。元は白かった汚れた布を払い、中身へと手を伸ばす。
「よう来た、ヒルコ」
 愛おしそうに船の中からイザナミが抱き上げたのは、茶色く干からびた一番初めの子供であった。
 
 
 ――不虞の子は海へ流せ。
 ――先に女から声をかけるから。
 そう言ったのは誰だったか。イザナミはもう、確かなことは覚えていない。
 覚えているのは、その言葉に従い、何の疑問も持たずに最初の我が子を葦の船に乗せて海に流したということ。しかし、そのことすら、最近蘇えるように思い出したにすぎない記憶の一片。
 先頃、イザナミを連れ戻すために黄泉にやって来たイザナギは、約束を破り朽ちゆくイザナミの姿を見た。自ら迎えに来たくせに、愛する妻を変わり果てた姿だけで化け物呼ばわりし、黄泉平坂で追いすがる妻を無情にも捨て、明るい世界に逃げ帰った。
 そう、捨てられたのだ。醜いが故に。
 そう思ったイザナミの心に、長らく忘れていた我が子のことが不意に蘇ったのは自然なこと。
 醜く、不虞故に、あの男と海に流したヒルコのことを。
 
 
 「辛かったろう、海の旅は」
 イザナミは、乾いたヒルコの体を崩れないように抱きしめた。その腐った手で触れることの出来る唯一の我が子を。愚かな男に従い、何の疑問も持たずに海の彼方へ捨てた子を。
 捨てられた身となって初めて分かる、悲しみと絶望。未だ幼子だったとはいえ、果てしない海の上で、照りつける太陽の下で、ヒルコは何を思ったのか。
 小さな体に老人のように深く刻まれたいくつもの皺の一つ一つを愛しむようになぞり、開けることも閉じることも出来ぬ目と口を優しく撫で、イザナミはヒルコに語りかけた。
「そなたをこのような姿にしたのは、この母じゃ。何も分からぬそなたを海へと流したのはこの母じゃ。許せというても、許せまい。そなたの口はこの国の物を含むことも出来ず、死してもここで移ろう時を送ることも出来ぬ。今のそなたはあちらにも、こちらにもおれぬ。ほんに、哀れな子よのう」
 イザナミの爛れた頬を、涙が伝う。
「だが、死して死せぬなら、そなたはこの海を戻ることも出来よう。それは、また長い旅になろうが、それでもこの国にそなたが居れぬのならば、それは戻らねばならぬ道。愚かな母のせめてもの償いじゃ。黄泉から戻ることが出来れば、そなたは再び神と崇められようぞ。あの男の成した、数多の神に劣らぬな」
 物言わぬヒルコに、イザナミは涙ながらに微笑んだ。蛆が、ぽとりとヒルコの顔に落ちて這う。イザナミはそれを丁寧に摘んで海に捨てると、ゆっくりと立ち上がった。そして、くるりと海に背を向け、暗い闇の中へと歩いていく。だがその道は、来たりし道とは違う道だった。それを迷うことなく、ヒルコを抱いたイザナミは歩んだ。
 
 
 死して死せぬその身には。
 黄泉の水が効くやもしれぬ。
 
 
 闇が再び開けた。
 しかし、それは薄墨の海ではない。もっと冷え冷えと暗く、かつ明るい、銀の泉。死せぬ者には不思議な力を持つという、黄泉の湧き水。
 イザナミは泉の側まで歩むと、静かに膝をついた。両の腕でヒルコを水面の上に掲げ、にっこりと笑った。
「苦しいのはひとときじゃ。すぐに楽になれる故」
 黄泉の国の湧き水に、ゆっくりとヒルコの乾いた体を浸していく。さざ波立ち、明暗に揺れる水面の下にヒルコの干からびた体が全て沈むと、イザナミはゆっくりと手を離した。
 ヒルコの体は一度水面に浮いた後、やがて吸い込まれるように水底にゆらゆらと沈んでいった。それを見届けたイザナミは、ほほほ、と声を立てて笑った。
 海に流したはずの子が、自らの国へ戻ってきたと知った時、あの男は如何なる顔をするだろう。
 
 
 しばしの時を待ち、イザナミが再びその腕に抱いたヒルコは、ずっしりと重かった。
 刻まれた皺の全てが消えたわけではなく、とても幼子には見えなかったが、ふくふくと黄泉の水を含んだヒルコは愛らしかった。頬を赤く染め、瞼を柔らかく閉じ、その唇は笑みを宿し、丸やかな顔は福すら感じさせた。
 未だ目覚めぬヒルコを抱き、その重みを噛みしめながら、イザナミは浜へと戻った。葦の船は、変わらず灯火のように砂浜に傾いでいる。この黄泉に決してなじむことの出来ぬ、神の船。どんなに高い波にも激しい風にも耐えてこの国まで来た船は、またヒルコを乗せて戻っていくのにも十分であろう。
「こんな晴れやかな気分は久方ぶりじゃ」
 イザナミはヒルコの顔をのぞき込んだ。死した己が生ある子を抱き、黄泉とあちらの境に立っている。そして、子は、ここからあちらに戻っていく。二度とまみえることのない世界に。
 イザナミは腐った二の腕で、強くヒルコを抱きしめた。
「黄泉の水は、そなたの力になろう。もはや、海で干からびることもあるまい。長い旅じゃ、気をつけて参れ」
 ヒルコの耳元で囁き、その額に紫色の唇を寄せると、足を海水に浸しながらもイザナミは我が子を船に横たえた。ヒルコは少し動いたが、よく眠ったままだった。
「ほんに、よい子じゃ」
 イザナミは傾いだ葦の船を、力をこめて持ち上げた。砂地から離れた船は、ゆらゆらと海面に漂った。もう一度、イザナミは船の中で眠るヒルコを見た。今度も、足は立たぬかもしれない。だが、もはや誰からも傷つけられることはない。
「さらばじゃ、ヒルコ」
 イザナミは船をゆっくりと押した。波は船縁ではじけたが、すぐに船を乗せ、静かに退いていく。船は音もなく遠ざかり始め、見る間に小さくなっていった。来たときと同じように輪郭がぼやけ、船なのか灯火なのか見分けがつかなくなり、やがて吹き消すように視界から消えた。
 イザナミは、それまで浜から動かなかった。
 船が消えると、薄墨の闇は少しばかり濃くなった。波の音だけが繰り返し響く。その果てなき海を見渡すと、イザナミは墨に溶かすように腐った体を引き戻し、また真の暗闇の世界へと帰って行った。
 
 
 ヒルコの船がどうなったかは、誰も知らない。
 しかし一説によれば、その後、遙かな海の道をたどり、播磨は西宮の浜に流れ着いたという。

 
 
 
 
 
 
 
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月

 
 
 伊耶那岐と伊耶那美の夫妻の間に生まれながら、その姿ゆえに海に流されてしまった蛭子。
 その蛭子が永い永い刻を経て戎になった物語を、妖之佑が、あおいさくらさんにお願いして書いていただきました。さくらさんには感謝の極みです。
 
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