大晦日は昔に帰ろう
作 あおい さくら
十二月三十一日、午後九時過ぎ。東京駅。
私は、疲れた体を新幹線のシートに埋めた。大晦日のこの時間、さすがに小さな子連れの家族はいなかったが、それにしたって乗客の殆どは帰省客だ。スーツに通勤用の黒のコートなんか着ているのは私くらいで、場違いな自分を感じたけれども、それを気にする間もなく睡魔に襲われた。コンビニで買ってきたサンドイッチを取り出す元気もなかった。
疲れていた。限りなく。
休み返上クリスマスは何のこと連続労働のおかげで、体はほぼ限界だった。それでも、今日粘ったおかげで、正月三が日の出勤は避けられるくらいに仕事を片づけたのだから、その疲れの分の満足感もあった。これで、少なくとも三日は休みなのだ。
休みなんて、いつぶりだろう? しかも三連休。フル出勤ではないにしろ、ここしばらくは――少なくとも、十二月に入ってからは――土日も会社に通った。体ってなかなか壊れないものだと納得してしまう。
帰ったら、ゆっくりお風呂に入ろう。
明日は、気の済むまで寝てよう。
そう考えただけで、幸せだった。心が解放される気がした。仕事に関する心配事もない。
気が抜けたのと、車内の暖気が、睡魔に味方をする。
私はすとん、と眠りに落ちた
新幹線が発車したことには、気がつかなかった。
実家の最寄り駅に降り立つと、小雪まじりの風が吹き付けていた。一緒にこの駅で降りた人々は、迎えの車に吸い込まれていく。いつもだったら私もその中の1人だけど、今日は新幹線に乗ってすぐに眠り、ここまでほぼ熟睡だったおかげで、父親に電話をするのを忘れていた。まったく、乗り過ごさなかっただけラッキーだ。
今から電話をすればすぐに来てくれるだろうが、二十分待つのも嫌だった。時計を見ると、十一時ちょっと前。お財布には余裕がある。私は、迷わずタクシー乗り場へ足を進めた。
その時、携帯が鳴った。ミスチル。プライベートの方だ。
「はい、もしもし」
「真梨?」
相手の声はすぐに分かった。腐れ縁の幼なじみ殿だ。
「そう。久しぶりね。元気にしてた?」
「今年は帰ってくるの?」
「もう、帰ってきたよ。今、駅に着いたとこ」
暇そうにしていたタクシーの運転手が、私の姿を見て後部座席の扉を開けた。それを見て、私の足は止まった。
「親父さん、迎えに来る?」
「ううん、タクシー」
「じゃ、今から行くよ。ちょっとかかるけど待ってて。ついでに、大光院に除夜の鐘を聞きに行こう」
「いいの?」
「大丈夫。今年は1人だからさ。二十分で行くよ。待ってて」
「わかった」
私は携帯を切り、くるりとタクシーに背を向けた。
バタン、と車のドアの閉まる音がする。お気の毒な運転手さんにちょっとだけ同情し、私は待合室へと向かった。
車内で寝たのが効いたのか、再び眠くはならなかった。
おかげで、空腹感に気がついた。コンビニサンドがあったのを思い出し、自販機で缶コーヒーを買って、誰もいない待合室の真ん中で、1人それを食べた。
時計を見る。さっきから八分しか経ってない。こんなふうに空いた時間を急に与えられると、戸惑ってしまう。
実家に電話をし、今駅にいること、これから大光院に行くことを知らせた。年越しそばは取っておいてもらうことにする。家の鍵を開けておいてもらうことも念押し。十分。
待合室の壁にずらりと貼られているポスターをぼんやり眺める。スキー、スキー、温泉、スキー、温泉。どちらもあるこの地元じゃ、何の広告にもなってない。十二分。
N.Y支店のロンから、気の早い Happy New Year メールが届く。優秀なくせに、いっつも日本との時差を一時間間違える。苦笑しつつ、返信。十六分。
ロンに返信したついでに、私用の方もメールチェック。着信ゼロ。仕事用は三秒眺めて電源を切った。とりあえず、今だけは。十八分。
私は、荷物を持って待合室を出た。荷物、とはいっても実家に帰るだけだから、小さなボストンバックひとつ。
外に出ると、雪は相変わらず風に乗って飛んでいる。タクシー乗り場とは逆の方向に歩き出して、首をすくめた。私のヒールの音だけが甲高く響く。出かけるなら、スーツの上に薄いコートじゃ、窮屈な上にたいして暖かくない。マフラーくらい持ってきたら良かった。
閑散としている駅のロータリーに、一台の車が入ってきた。見慣れない車だったけど、オレンジ色の照明に浮かび上がった運転手の顔は彼だった。
目の前に車が止まる。ブルーのRV。車体が止まるとすぐに、トランクが軽い音をたてて開いた。運転席のドアが開くのも、ほぼ同時。
変わってないのね。相変わらず気のつくヤツ。
短い髪に、白いセーター。長いブランクを微塵も感じさせずに、幼なじみ殿はこっちにやってきた。
「お帰り、真梨。こっち、寒いだろ?」
私はその場所で笑った。
「ただいま、智哉。まさか、雪だなんて思わなかった」
彼は苦笑しながら、私の手からボストンバックを奪った。
「これだけ?」
「それだけ」
「ノートパソとか、持って帰ってこないの」
「正月くらい休ませてよ」
「そりゃそうだ。乗んなよ、もう時間ないし」
頷いて、私は助手席のドアに手をかけた。新車の輝き。案の定、車の中は新しい物特有の匂いがした。軽いエンジン音で、スムーズに発進する車。智哉はステレオのボリュームを落とした。
「クルマ、買ったのね」
「そ。夏にね。ようやく新車。只今、ローン地獄」
「そりゃ、ご苦労サマ」
人気も、通行量も少ない通りを、私達の家の方とは反対の方へ走る。左折し終わってから、智哉は私に聞いた。
「直接戻らなくて大丈夫だった?」
「平気。相変わらず、うちの親は智哉の名前に弱いもの。初日の出見て帰るって言ったって、二つ返事でOKだわ」
「光栄だね。おばさん、元気?」
「多分。っていうか、私より智哉の方が会ってるかもよ」
「かもなぁ。真梨とこっちで会うなんて、いつぶりだろう」
「一年ちょっと、戻ってきてない」
「仕事、忙しい?」
「忙しいわよ。鬼のように。なんとか楽しいだけが救い」
「スーツな所を見ると、今日も仕事?」
「まあね。今年は帰ってきたかったし。会社行って、目途付けて、そのまま新幹線」
「信じらんねぇ。市役所とはえらい違い」
「二十八日からお休み?」
「そ。カレンダー通りだよ。市民課なんて特にね」
「でも、一日に婚姻届とか出す人いるじゃない」
「そんなの、明けてから。日付だけの処理だから」
他愛もないことを話しているうちに、路肩に雪が目に付くようになってきた。山向こう、空がぼんやりとオレンジ色に染まっている。スキー場も大方、年越しイベントの真っ最中なのだろう。車は、そちらの方角を避けるように、外灯ひとつない暗い一本道を登っていく。カーブに差しかかるたびに、杉林のきれいに揃った幹が闇の中に浮かび上がった。
くねくねとした山道を五分ほど走ると、ちょっとした広場みたいなスペースに出た。大光院の駐車場だ。地面も舗装されていないし、ましてやラインがひいてある訳じゃない。数台、ばらけて車が止まっている。智哉はハンドルを切り返すことなく、するりとバックしてその間に車を入れた。教習所に通っていた時には、私の方が実技の飲み込みは早かったのに。今じゃもう敵わんと思って、私はこっそり舌を巻いた。
ドアを開けると、冷たい風に乗って重い鐘の音が響いた。
「早くしないと終わっちゃうな」
智哉がグレーのフリースを羽織りながら言った。それから、もう一度トランクを開けて、スキーウエアの上着を出し、私の手に押し込んだ。
「スーツ、かたっ苦しいだろ」
「おぉ、さんきゅ」
「スニーカーもあるけど?」
「さすがに大きいって。しかし、何でそんなに色々あるのよ、智哉のクルマ」
「四次元トランクだったりしてね」
私は笑いながらコートとジャケットを後部座席に放り込んだ。半袖ニットの上に、白地に紺のスキーウエアを着る。多少ブカブカだけど、中のボアが暖かくて気持ちいい。
トランクを閉め、私達は石段に向かった。また、一つ鐘。こんなギリギリの時間帯に来る人はいないのだろう、辺りには誰もいない。参道を歩くと、また、コツコツという私のヒールの音だけが響く。ごつごつした石畳の上は歩きにくかったが、仕方ない。
「それじゃあ、鐘、つけないね」
「聞くだけで十分。ここに来るのも久しぶりだし」
「お前が年越しに帰ってくるなんて、学生以来だろ」
「そうだっけ」
私は苦笑した。社会人になって、四年が経つ。そんなに長い間、お正月を地元で迎えていなかったっけ。振り返ってもあんまり時間が経っていないような気がするのは、いつものことだ。
私は必死だったから。
振り返りたくなかったから。
小さな自分をできる限り大きく見せたかったから。
……1人で、歩みたかったから。
そんな昔を思い出し、私は無口になった。智哉も何も言わなかった。きっと、石段を登って疲れていると思ったのだろう。実際、半分を過ぎた頃から、私の息は荒くなっていた。
百段ちょいの、林の中の階段を登りきると、下からは想像できない大きさの境内が広がる。あちこちに篝火が灯され、暖をとる焚き火も用意されている。一際大きな焚き火の側では、人々が暖を分かちながら鐘を聞いていた。右手の鐘楼にも人だかり。後いくつも百八まではないはずだから、多分今から並んでも鐘はつけないだろう。本堂からはろうそくの柔らかい光が覗き、寺務所の方では檀家らしき人達が談笑していた。下に停まっていた車の数からは及びもつかない程の人がいたが、見知った顔はなかった。
私は、ほっとした。
心ならずも。いや、心から。
ここで、知っている人には会いたくなかった。
真梨ちゃん、久しぶり。今どうしてるの、どこに住んでるの。お仕事は、会社は? 智哉ともまだ会ってるの、相変わらず仲いいよねぇ――。
そんな話は、こんな時にこんな場所でしたくない。
智哉は、そんな私の心内を知ってか知らずか、人の目に付かない場所を通って、境内の隅に向かって歩き出した。いや、きっと彼は私の心の中なんて、すっかりお見通しなのだろう。そして、彼もまた私と同じ気持ちに違いない。仕事の関係上、智哉の方が地元では顔も広いし。私は黙って彼の後ろに付いていった。
隅の方には一つだけ、ぽつんと誰もあたっていない焚き火があった。昔懐かしアルミの一斗缶に薪がたくさんくべてある。炎は勢いよく燃え上がり、時折ぱちん、と火の粉を上げた。
「年明けには間に合ったな」
智哉が腕時計を見ながら言った。
「カウントダウンするつもり?」
私は笑った。
「除夜の鐘を聞くなら、カウントダウンは無理よ」
低く、重い、空気を震わす鐘の音が、私の声に重なる。
「明けてからも、鐘は八つなるんだよ」
「そうだった?」
「そう。鐘が終わるまで余韻に浸りたいならね」
「何か調子狂うなぁ」
「あら、でも」
私は鐘楼の方を見た。赤いコートの女の子が、母親と一緒に引き綱を持っている。
「私は、こっちの方が好き。カウントって、何か白々しいもの」
「真梨は、しんみり屋だからね」
おどけて智哉が言った。私は軽く彼を睨んで、焚き火に手をかざした。炎の熱が心地よい。
私達は黙って、次の鐘を聞いた。赤いコートがひらりと揺れる。
人数の割に、境内は静かだった。今時、除夜の鐘なんて流行らないのかも知れない。しかし、それでかえって、浮ついた人はやって来ないのだろう。私達の年頃の子も見かけない。観光寺院でもない地元の寺では、なおさらだ。ましてやこんな山奥の寺まで足を運ぶのだから、人々は鐘を聞きながら静かに言葉を交わし、今年一年をそっと見送るのだろう。
だからこそ、どこかしら厳粛で……。
私は、ぐるりと境内に視線を巡らせた。
……好きなのかも知れない、この空気が。
そう思って、智哉の言った「しんみり屋」という言葉が甦ってきて、思わず微笑が漏れた。全くもって、その通り。伊達に付き合いが古い訳じゃない。鋭いことをサラリと言ってくれる。でも、智哉に言われるのは不快じゃない。きっと、立場が逆でも、それは一緒だろう。
今回、どうしても帰って来たかったのは、ひょっとしたら、この空気に触れたかったからなのだろうか。初めは、実家でのんびりしようと思っていただけで、智哉の電話を受けるまでは、すっかり忘れていたけれど。無意識のうちに求めていたのかも知れない。体の何処かが、毎年のように見送った一年の最後を。
私は智哉を見た。彼は炎を見ていた。どこかしら幼さの残る顔に、ちらちらと火が反射する。その表情は強ばったものではなかったけれど、決して緩んでもいなかった。
私は暫し彼を見つめた後、気付かれないように視線を外した。
また一つ、鐘が鳴った。
百八の鐘が撞き終わると、厳粛な空気がふうわりと緩んだ。
佇んでいた人々に動きが生まれる。心なしか、ざわめきも増す。
それでも、私達は黙ったまま、揺れる炎を見つめていた。沈黙は続いていたけれども、気まずくはなかった。私達だけが、あの空気の中に取り残されたような感じだった。
「真梨」
先に口を開いたのは、智哉の方だった。彼の低く、澄んだ声は、時折私をどきっとさせる。もう、二十年近くも、何千回と、何万回と名前を呼ばれているのに。
私は彼を見た。
彼の眼差しは真剣だった。
彼のこの眼も、私は、数回しか見たことがない。本当に、本当に畏れ多いくらいに真剣な瞳。こちらが軽く笑って受け流すことなど、憚られてやまない素敵な目。
「もう、遅いのかな」
智哉の深い声。落ち着いた声。荒らげた事なんて、一度もなかった。
彼は、もう一度言った。
「遅いのかな」
智哉、遅すぎるよ。その言葉、もっと前に聞きたかったのに。ずっと、待ってたのに。待って待って、そして、決めてしまったのに。
私は、細く、深く息を吐いた。
そして瞳を閉じ、ゆっくり頷いた。
智哉の眼差しが、心に刺さって痛かった。
他の人達に大分遅れ、境内に殆ど人影がなくなった頃、私達は石段を下りていった。
上りよりも下りの方が、ヒールの場合は厄介だ。特に、今日はかなりヒールが高い。周囲は背の高い木立、灯されたろうそくは半分消えかかっていて足元が暗い上に、石段は自然石をそのまま使っているから平らじゃないし、手すりもない。私は転ばないように一歩一歩を踏みしめて、ゆっくり階段を下りた。
一歩先を行く智哉は、振り返りこそしなかったが、私の歩調に合わせていてくれた。それでいて、気を使っている素振りは少しも見せない。そういう所が彼のいいところだ。私は、他にこんなさりげない優しさを持っている人は知らない。特に、私の会社では絶対お目にかかることが出来ない。
突然、智哉が足を止めた。私も、つられて止まった。
「どしたの?」
「月」
「え?」
私は、智哉の指さす方を見た。いつの間にか小雪が止み、雲が散り散りになって月が見えていた。澄み切った凍えた空に、冴え冴えと輝く銀の月。あまりの美しさに、私は息を呑んだ。
「真梨、遅いよ」
間抜けに呆然と月を見上げた私に、智哉は言った。何のことか分からず、私は間抜けな表情のまま智哉を見た。彼は小学生の時に一緒に悪戯を仕掛けたような笑顔を浮かべている。
「さっさと下りようぜ。おぶってやるからさ」
「は?」
「そんな危なっかしい足取りじゃ、こっちがヒヤヒヤだよ。転がり落ちて、会社休むわけにいかないだろ」
くるり、と智哉は背を向けた。私は、呆気にとられて彼のグレーのフリースを見つめた。
「いーから、早く。今さら照れる仲かよ」
私は立ちつくした。
言葉が出なかった。
喉の奥か、心の奥か、何処か分からない場所に熱を感じた。
「ほら、真梨。寒いしさ。早く下りよう」
「……ともや」
「おぶってやるから、その代わりにつきあえよ。初日の出。猫耳山、今から行けば間に合うだろ」
「……あんたってば」
私は彼の肩に手を置いた。
「重いわよ」
「どうってことない」
「覚悟してね」
「もう、十分」
「じゃ、遠慮なく」
私は智哉の背中に飛びついた。彼はびくりともしなかった。「軽いって」と小さく呟いて、階段を下り始める。私が背にいるなんて、全く関係ないみたいだった。しっかりとした足取り。堅調な歩調。安心感が伝わってくる。フリースとスキーウエア越しに、暖かさを感じた。
「俺さ、待ってみるよ」
足を休めず、彼が言った。声が背中から聞こえた。
「真梨、前に言ってたじゃん。納得するまで待つのが得意だって。俺もさ、それ、やってみる。迷惑かもしれないけど、遅かったら走れば間に合うわけだし」
「……ごめんね」
「謝んなって。間に合わなかったのは、俺だから。真梨は、今ので、いーんだよ」
彼の声は優しかった。深くて、落ち着いていて、ケンカばっかしていたお子様の時が思い出せないくらい。
あなたは優しい。信じられないほど。
そして、怖いくらいに私の心を掴んでいる。
「ごめんね、智哉」
私は、彼の肩に顔を埋めて、もう一度言った。
彼はもう何も言わなかった。ただ一歩一歩、階段を下りていく。
山の端に傾く月が、淡く滲んだ。
私は、今年が智哉に良き年であるよう、心の底から祈った。
<終>
お待たせいたしました。辛うじて『日本の伝統文化』な物語です。しかも、既に時期はずれ。申し訳ないです。
『除夜の鐘』はきっとお寺の規模や地方とかで、だいぶ差があるのではないかと思います。この作品では、何処にでもある、普通のお寺を思い浮かべてみましたが……。特別ではない行事って、意外に共通項では描きにくいです。
作品内容としては、多分恋愛モノなのでしょう。「淡々と」を心がけたのですが、如何だったでしょうか? 私はこういう、わけのわからん絆が好きです(笑)
2002年1月
あおいさくら
里帰り、大晦日、二年詣り、除夜の鐘、訳の判らん絆。
空気が伝わってくるような感じで、何かしみじみとさせられます。
本当は雰囲気を優先して「夜系」の壁紙にしたかったのですが、見辛いのでやめました。
文章だけで、充分伝わってきますよね、雰囲気♪
あおいさくらさん、素敵なお話をありがとうございました。
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