文月のゆき


 
 
作 斑鴉  

 
 
 
 
 
 
 
 
 薄暗い森を抜けると、真夏の日差しが目を焼いて。
 思わず腕で顔をかばった。
 右手をおろして両目をあけると。
 目の前に、神さまがいた。
 
 
 1.8月19日
 
 あたしの生まれた佐波七村には、ちょっと変わった言い伝えがある。
 村はずれの戸和山の中腹にある神社の裏手。そこに設えられた小さな祠に旧暦の七夕の夜に豆腐を一丁お供えし、二週間(六曜だから12日)過ぎても腐っていなければ、それをお供えした人のところに神さまがやってくる、というものだ。
 神さまが訪れるのは一日だけ、一生に一度きりという制限はあるのだが。
 それなりに由緒ある風習で、昭和の中ごろには東京をはじめ全国各地から豆腐を置きにくる人もいた。江戸時代のマイナーな紀行文にも載っているらしい。定説によると、起源は今から800年以上さかのぼる平安末期。豆腐が民間に普及したのは室町時代、西暦でいうと1400年から1500年という話だから、豆腐のなかった時代には何をお供えしていたのだろうか。気になって調べてみたら豆腐をお供えしはじめたのはここ300年くらいの話で、それまでは別になんでもよかったようだ。
 かつて村出身の学者先生が大仰な名前をつけたおかげでニュースなどでは <神迎えの儀>と呼ばれているが、佐波七村では<戸和さまの>といえばみんなに通じる。
 そんなありふれた風習である。
 神さまではないがお盆にはナスとキュウリの馬を供えて先祖の霊を家に迎えるし、正月にはいろいろ準備をして年神さまをお迎えする。それと同じだ。
 では、遠路はるばるいらっしゃった神さまは、幸運にも選ばれたたった一人の村人に、どんな幸福をもって報いてくれるのか。
 結論から言えば、なにもしない。
 昔話のように願いを叶えてくれるとか、福や富を授けてくれるとか、そういった得になる伝承は一切まるで何一つない。過去に本当に神さまを招いた、と主張する家もあるが、その家が他と比べて裕福だとか、歴史に名を残す功績をあげたとか、そういったこともない。
 どうせ(といっては不謹慎だが)おとぎ話なのだから、もう少し夢があってもいいと思うが、実際は神さまが里から空に戻るまで一日分の食費が増えるだけである。
 神様なんて本当はいない、と言ってしまえばそれまでなのだが。
 そんな理由で、信仰に篤く娯楽が少ない時代には山を埋めつくすほどといわれた豆腐の皿も、いわゆるバブルの時代を境に激減。あたしが物心ついたころにはすでに10皿程度、今年はついに、あたしがお供えした1皿だけになってしまった。
 あたし───鳥宮由紀は今日、貴重な17歳の夏休みの半日を費やして、戸和さまの結果を確認すべく神社の裏手の祠へとむかっていた。
 丘よりちょっと高いくらいの大きさとはいえ山は山。背の高い樹々に遮られて直射日光は当たらないものの、湿度が高く蒸し暑い。ほとんど誰も通らないため足場も悪い。
 この時期の山歩きは本当にきつい。
 戸和さまの結果を確認するといっても、どうせ腐ったお供え物を処分するだけだ。
 なんであたしがこんなことを……という思いもある。
 それでも30分かけて山道を登りきり、森を抜けだして祠のある拓けた場所にたどりついた時。
 あたしの目の前に、神さまがいた。
「って、そんなわけないじゃない」
 心の中で、頬を平手でぺちんと叩く。
 そこにいたのは10歳くらいの女の子だった。
 まるで飢えた野性の狼が毒入りの肉を前にしたように、なんとか食べられないものかという表情で、見るも無残な姿になった異臭を放つ元チーズケーキを───数百年も豆腐ばかりでは飽きるだろうと変えてみたのだ───凝視している。
「……これ、食べられないからね?」
 いちおう念を押してはみたが、女の子は「ううううう」と唸っているのか了解したのかよく分からない返事をしてきた。
 変な子だ。
 見覚えがないから、佐波七村の子供ではない。
 では街の子ということになるが、この場所は遠くの子供が迷いこむには難度が高いと言わざるをえない。
 ジャンパースカートは傷だらけの泥だらけ、今どき5歳の男子でもこんなぼろぼろの服は着ていない。それでいて長い髪の毛だけは泥が跳ねているどころか、たったいま美容室から出てきたばかりのように輝いている。
 なんでこんな子を見て神さまだなんて思ったのか───薄暗い場所に慣れていた目がいきなり真夏の直射日光を浴び、おかしくなっていた状態で子供を見たため神々しく映ったとか、きっとそんなところだろう。
 とりあえず子供が妙な気を起こさないうちに、かつてチーズケーキだった物体をゴミ捨て用に作られた穴に処分する。「あああああ」と無念の声を上げる女の子に声をかけてみた。
「何の用事でここに来たの?」
 女の子は上目使いであたしを見ると、恐る恐るといった雰囲気で答えた。
「お姉ちゃんに会いにきたの」
「あたしに?」
 想定外の返答に首をかしげる。
 街の子なんかに、知り合いはいないはずだが───
「あたしのこと知ってるの?」
「うん。ゆーちゃん」
「あ─────」
 その言葉に閃いた。
「もしかして、鈴花ちゃん!?」
 名前を言うと、女の子は嬉しそうに抱きついてきた。
 鈴花というのは母さんの今は街に住んでいる妹の7歳になる長女の名前で、あたしとは遠い血縁関係にある。要するに従妹だ。
 彼女がすごく小さいころに病院で会って以来、折に触れては電話で話したり年賀状を送り合ったりしているが、顔を合わすのは今日が二回目だ。
 小学校の夏休みと、主に彼女の両親の都合によって今日から一日だけ我が家で預かることになっていたのだが、昨日になってうちの両親にも外せない用事が入ってしまい、3日ほど外泊することになったため、急遽お泊まりは中止になった。
 なったのだが。
「……来ちゃったのかぁ」
「うん、来ちゃったっ!」
 鈴花は子供好きには絶対に抵抗できない、100万ドルの天使の笑顔であたしを見上げる。
 近くに両親の姿は見えない。ここまで登る間にも見かけなかったから、きっと一人で家を抜けだしてきたのだろう。それ以前に、鈴花の両親は今日は用事でどこか遠くに行っているはずだ。
 おまけに彼女の家から佐波七村まではバスが通っているとはいっても、小学生が散歩気分で往復するには遠すぎる。まだ小学校2年生だというのに、末恐ろしい行動力である。
 そんなにうちに来たかったのか。
 感心するような呆れるような気持ちでため息をつくと、あたしは鈴花の頭上に手を置いた。
 頭を撫でられたと思ったのだろう、鈴花はえへへと笑みを深くする。
「鈴花ちゃん」
「なーに? ねーねーゆーちゃん遊ぼーよー。なにしよっか? ゆーちゃんいつも家でなにしてるの? 友達いるの? お料理できる?」
「す・ず・か・ちゃ・ん」
 頭に乗せた手のひらに力をこめる。
 天使の笑顔が引きつるが無視。
 かつて調理実習中に生のジャガイモ握りつぶして周囲の男子をドン引きさせた伝説をもつ握力で容赦なくぎりぎりと締めつける。もう少し腕力があれば、バレーボールみたいに片手で鈴花を持ち上げていたことだろう。
「なに考えてるかなぁ。一人でこんな所まで出歩いて、迷子になったらどうしようとか思わなかったの? 電話したって誰も助けにきてくれないんだよ? その前に、お家の人に遊び行ってきますってちゃんと言ったの? 言ってないよね? 今日はお母さんたちいないんだから」
 鈴花は「うにゅまもみむれ」と意味の分からない返事を繰りかえしながら、宗教的な踊りのように両腕を振り回している。見てるとけっこう面白い。しかしあたしは真剣な表情を崩さず、屈みこんで目線を合わせた。
「誰も教えてくれなかったの? 鈴花ちゃんみたいな小さい子供が一人で知らない場所をふらふらしてると、怖いおじさんに誘拐されちゃうんだよ? そうしたら海外に売り飛ばされて、教育上言えないようなことを毎日させられるんだよ? 佐波七村にはそんなことする不届き者はいないけど、街からきてる連中はなにするか分からないんだから」
 言い聞かせているうちに、鈴花のようすが変わっていった。振り回していた手が力なく垂れ下がり、叫び声をあげていた口は無言でぱくぱく開かれるだけになり、真っ赤だった顔色も病人みたいに青くなってきた。
 きっと反省して、罪悪感でうなだれているんだろう。
『ヤバい、やりすぎたか』という心の声を黙殺し、あたしはちょっと力をゆるめた。
「いい? 今日は泊めてあげるから、帰ったらちゃんと自分でお父さんとお母さんに謝りなさいよ?」
「………………………………………………」
 泣きそうな顔でうつむいた鈴花が、小さな声でなにかを言った。
「え? なに?」
 頭に置いた手を放して耳を口元に近づける。
「……………ちゃんの………………………カ」
「鈴花ちゃん、聞こえないって」
 ほとんど口に触れるまで耳を寄せていく。
 大きく息を吸いこむ音がした。
「っ!?」
 嫌な予感が背筋を駆け抜けるが、もう遅い。
「ゆーちゃんのバカーッ!!」
 鈴花は耳元で鼓膜が破れそうな声で叫ぶと、きゃははははははと笑いながら逃げ出した。
 嘘泣きにひっかかったと気付いたのは、たっぷり数秒は過ぎてからだった。
「───こんのガキ」
 鈴花の背中を追いかけて、あたしも駆けだす。足の長さに相当な差があるはずなのに、なかなか距離が縮まない。
「待ちなさい! あんた捕まったらどんな目に合いたいか、ちゃんと考えときなさいよ!」
「わーい、鬼ごっこーっ」
「遊んでんじゃないわよあんた!」
 結局鬼ごっこは30分続き、最終的に本当に泣いて謝るまで手加減抜きのヘッドロックをくらわせることになった。
 
 鈴花を連れて帰宅したあたしが最初にしたことは、彼女の服をむしり取ることだった。
 泥を払ったブラウスやジャンパースカートを洗濯機に投げ入れ、鈴花本人も風呂に放りこむ。
 野良猫みたいに暴れて抵抗する鈴花を力ずくでお湯につけこみ、体中の泥を落して髪の毛を洗う。頑丈な皮膚をしているようで、服はあちこち破れているのに体には傷ひとつない。
 頭を押さえて湯船のなかで百まで数えさせてからバスタオルで体を拭いて髪を乾かし、軽くブラッシングする。
 子供ひとりを風呂にいれるだけだというのに、なぜだかすごく疲れてしまった。
 そういえば、むかし飼っていた紀州犬も、よくこうして風呂に入れていた。そんなことを疲労のなかで思い出す。あの子も風呂が大嫌いでよく暴れていた。
 感傷にふけっているヒマはない。心の中で頬を叩いて現実に戻る。
 数年前に、おばあちゃんからなぜかもらった子供の服をタンスの奥から引き出して鈴花に着せる。多少サイズが違っても洗濯が終わるまでは我慢させるつもりだったが、いざ着せてみるとなぜか鈴花にぴったりだった。
 黄色くて動きやすそうなTシャツに首を通し、長い髪を服の中から抜きだした時、ふと思いついてその髪を頭の後ろでまとめてみた。
 ポニーテールというやつだ。
 少し離れて眺めてみると、これが鈴花のあどけない顔だちによく似合う。
 あたしはいったん束ねた髪をほどいて、本格的に髪を結ぶことにする。
 髪留めはリボンかゴムか。迷う理由はない。鈴花なら動きやすいゴムだ。
 髪を束ねる上で、もっとも見栄えのよい場所───ゴールデンポイントは斜め45度ともあご先から耳の中心を通るラインの延長上とも言われているが、今回は後者を採用。
 美容師にも負けない集中力で慎重に位置を割りだして、寸分の狂いもなく束ね上げる。
 じっとしていることがもっとも苦手に見える鈴花だが、あたしの真剣さを察してくれたのか、うずうず体を震わせながらも我慢して動かなかった。
 そして───
「よし、完成」
 仕上げとばかりに鈴花の頭をぽんと叩いた。
 少し離れて全方位からチェックする。完璧だ。
「うん、ゆーちゃんありがとっ」
 完成したポニーテールを鏡で見せると、鈴花もかなり気に入ってくれた様子で、嬉しそうな笑顔で頭をぴこぴこ動かしては髪を跳ね回らせていた。
 
「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起こってるんだっ」
「その会議室が武装犯にジャックされたんだ! とっとと助けにこい馬鹿野郎っ」
 かつて劇場で日本人の5人に一人を感激させた名台詞を薄型テレビのスピーカーが吐き出した瞬間、隣に座る鈴花の中でなにかの糸が弾けた音を確かに聞いた。
「もーやだー! こんなの嫌ー! ねーねーゆーちゃん遊ぼーよーっ。ゆーちゃんいつもなにやってるの? なんでもいいから遊ぼーよーっ!」
 泣き叫びながら抱きついてくる鈴花の頭を見下ろしながら、あたしは辟易とした感情を顔にださないよう苦労していた。
 甘えたがりも度が過ぎている。
 最近の子供はみんなこうなのか。我ながら年寄りくさいと思ったが、あたしはそう思わずにいられなかった。
 あたしは鈴花はじっとしているのがもっとも苦手なのだと考えていた。しかしそれは正確ではなかったようだ。
 鈴花は、一人でいることをなにより嫌う。
 鈴花も血縁とはいえ街の子だ。街の子が喜ぶことなど知らないし知りたくもない。
 だから夕飯までテレビゲームで時間を潰させようと考えた。
 対戦ゲームをしているうちは、それがどんなに面白くないゲームでも、たとえどれほどボロ負けしても、鈴花は心の底から楽しそうにプレイする。
 しかし「じゃあ、後は一人でやっててね」などと言おうものなら悪魔でも取り憑いたような勢いで抗議する。
 仕方がないのでテレビを見せることにしたのだが、鈴花はチャンネルにこだわらないくせに、あたしが長時間席を外したり画面を見てないと泣く。
 チャンネルをあたしも見ていられる昔の映画にあわせたが、あまり気乗りしないのをあの頑丈な肌で感じ取ったのか、次第になにかに耐えるようなオーラが鈴花から発散されはじめて。
 たったいま爆発した。
「あー、よしよし」
 抱きついてきた鈴花をあやしながら、どうしようかと考える。
 名案は浮かんでこない。しかし鈴花は泣き叫ぶ。
 あたしはとりあえず、外に連れ出すことにした。
 
 佐波七村。
 人口およそ5000人。
 俗にいう農村で、主な産物は米やハト麦・さくらんぼ。
 こう書くと芸能人が泊まりにきそうな昭和で時が止まった僻地のように思われるかもしれないが、この村は見た目ほど田舎ではない。
 ネットくらいはつながっているし、地デジの電波だってきている。
 もっとも本当に地デジ電波がきているか誰も対応テレビを持っていないので確認のしようがないし、ネットは昔の有線放送を利用したケーブル型だが、そもそも光がファイバー中を走る速さと電圧がケーブルを進む速度にどのくらいの差があるというのか。
 今のご時世、パソコンがあれば大概のものは手に入る。
 それでも足りないものがあるなら、村の中心には昔ながらの商店街があり、車を40分も転がせば大型スーパーや家電量販店、ホームセンターだってある。コンビニが近くにないのが珠に瑕だが、聖書に明記してあるように、コンビニというのは悪魔が発明したものであり、あんなのがあるせいで人類は堕落するのだ。
 あたしは鈴花を連れて、村の商店街に行くことにした。
 まだ日は高く、バスを使えば暗くなる前に街で遊んで帰れる時間だ。公園あたりで適当な遊び相手を見つけてやれば、鈴花も満足するかもしれない。
 しかしあたしは村の商店街を選んだ。用もないのに街にいく気が起こらなかった。
「わ──────────────っ!!」
 道すがらあたしと手をつなぎ、デタラメな歌をご機嫌に口ずさんでいた鈴花は、商店街にたどり着くなり奇声を発して楽しそうに駆けだした。
 こう言ってはなんだが、さびれた商店街だ。村の人間でさえ街にあるスーパーを利用している。かわりに街や遠方の人間が観光気分でくることもあるが、そんな連中が押し寄せるのは週末だけだ。
 平日まともに店を開けているのは数軒ばかり、広い通りに人影はない。
 しかし鈴花は初めて遊園地にきたような足どりで、周囲の店を手当たりしだいにのぞきこんでいる。
 よく分からない子だ。
 ここまで情緒が安定しないのは普通ではない。もしかして、陰でおばさんに虐待されているのでは……などという考えが脳裏をよぎる。あとでこっそり聞いてみようか。
「おんや、誰だい。こんな時間にめずらしい」
 鈴花の声につられて店の奥から顔を出したのは、あたしの実のおばあちゃんだ。
 もう還暦を越えている老体だが、子供に迷惑はかけたくないと、商店街の中ほどにある店舗兼自宅で一人暮らしを貫いている。かわりに子供と孫に心配かけているのだが、そんなのは本人にとってはどこ吹く風らしい。
 この店で手作りおはぎを売っていて、これがなかなか評判がいい。村の名物おはぎとしてテレビにも紹介されたこともあり、遠くからのリピーターも多かったりする。あたしにとっても大好物だが、手作りなので数が少なく、いつも品薄で滅多に食べられない。
「おばあちゃん、騒がしくしてごめんね」
「おや由紀かい。気にするんじゃないよ。どうせ客なんていないんだ。誰か友達でも連れてき───」
 おばあちゃんは視線をあたしから駆け寄ってきた鈴花に移して。
 幽霊でも見たように目を見開いた。
「あ、あああああ、ああああああああああああ」
「もーちゃん、おひさしぷりーっ!」
 固まって動けないおばあちゃんに、一直線に鈴花が飛びつく。
「ねーねーもーちゃん、あれからどんなことあった? 元気だった? 楽しかった?」
「そりゃもう色々あったさ。あんたも元気だったかい? さり───」
「鈴花だよっ!」
「鈴花?」
 おばあちゃんはきょとんとした顔で鈴花をながめ、やがてあたしに目を向けると「ああ!」と手を打った。
「そうだそうだ。鈴花。鈴花ちゃんだよ」
 そのやりとりに、心の中で首を傾ける。
「おばあちゃん、鈴花ちゃんと会ったことあったの?」
 頬をすり寄せる鈴花の頭を撫でながら、あたしの問いに遠くを見るような目で答える。
「ああ、ずっと前にな」
「ずっと前?」
 鈴花の年齢が7歳。物心ついたのが3歳として、せいぜい4年。その間に会っていたとしたって、おばあちゃんが『ずっと前』なんて言うほど昔ではないと思うが───
「もーちゃんもーちゃん、もーちゃんも一緒に遊ぼうよーっ」
「ごめんなぁ。ばあちゃん年をとりすぎちゃって、もう体がついてかなくて前みたいに一緒に遊べないんだよ」
 おばあちゃんが心底残念そうに言う。
 これもよく分からない。
 聞き流せば普通の会話だが、よく考えると端々に不思議な表現がある。
『もう』体がついていかなくて『前みたいに』一緒に遊べない。絶対におかしい。
 もしかして────
 あたしの脳裏に、ある考えが閃いた。
 二人の会話を吟味してみると、可能性はこれしかありえない。そんな気がする。
 恐ろしい可能性だ。
 この考えが合っているなら、ちょっと普通にはしていられない。
 鈴花とのつき合い方も考えなければならないだろう。
 つまり────
 おばあちゃん、ボケてきたんじゃなかろうか。
 この様子だと、下手な詐欺にも簡単に引っかかりそうだ。もしかすると、すでに騙されて多額の借金を抱えているのかもしれない。
 鈴花も鈴花で、人畜無害な顔をして平気で人を騙すような性格ならば、やはり街の子、慎重に距離をとらなくては。
 戦慄するあたしの耳に、おばあちゃんの声が届いた。
「二人とも、あがっておはぎでも食べんかね」
 
「ちょっと鈴花! そのイチゴ餡あたしが狙ってたのになんで取るのよ!?」
「ゆーちゃんだってボクのつぶ餡とったもん! あああ! そのクリーム餡もボクのなのにっ!?」
 食卓はすぐに戦場になった。
 高校生として年上らしく大人の態度で上品に食べるあたしに対し、鈴花はまさに鬼神のような勢いで、小さな体のどのあたりに詰めているのか不思議になるほどのおはぎを平気でたいらげていく。
 大皿いっぱいのおはぎをめぐって、必然的に二人の間には摩擦が生じる。
「だから鈴花、こっち側に置いたのはあたしの食べる分だって言ったでしょ! なんであたしの陣地から優先的に食べてくのよ!」
「ゆーちゃんがボクの好きなのから優先的に自分の陣地に入れてくからだもん!」
 誤解のないように断っておくと、決してあたしは小学校低学年と同じレベルで甘いものに釣られているわけではない。おばあちゃんへの心配や鈴花への疑念はしっかりと頭のすみに残っている。
 しかしそれはそれとして、せっかくおばあちゃんのおはぎを食べられるのだから、食べられる時に食べておかないと損ではないか。
「ほら鈴花ちゃん、お行儀悪いよ? 鈴花ちゃんの好きなチョコチップ餡とってあげるから、大人しく座ってなさい」
「ゆーちゃんなんでそう言いながらキムチ餡をボクに渡すの!? しかも今ゆーちゃんが自分用に確保したのがチョコチップだよね!?」
 おばあちゃんの作るおはぎは潰した米の表面に餡をまぶす一般的なものではなく、餡を内部に詰めこむタイプだ。しかも餡には斬新というか冒険的な材料を用いることもあり、基本的にはすごく美味しいのだが中には味覚に合わないものもある。
 だから外側から餡を見分ける技術が重要であり、この技にかけては誰にも負けないと思っていた。
 しかし鈴花はあたしに負けないくらい的確に、そして素早く中身の餡を見抜いていく。どこで身につけたのか知らないが、恐ろしい眼力だ。
 それにしても────
「へえ、ほはあひゃん」
「……由紀。一応あんたも年頃の娘なんだから、両手に二つずつ持ったおはぎに交互にかじりついて、口一杯に頬張ったまましゃべるのはやめんさい」
 奥の台所から追加のおはぎを運んできたおばあちゃんが呆れ顔でいう。あたしはごっくんと栗餡を呑みこんで再び訊ねた。
「おばあちゃん、こんなに作っちゃって大丈夫なの?」
 おばあちゃんのおはぎはアンコから完全に手作りなので、一日に作れる数は限られている。今あたしたちの前に並ぶおはぎの量は、どう考えても明日スーパーに卸したり店で売る分をすべて回しているとしか思えない。そこからさらに追加があるのだから、遠方からの客でにぎわう週末のために仕込んでおいた材料まで使っているはずだ。
「今日は特別だ。そんなこと気にすんな」
 なにが特別なのだろうか。横から伸びてきた右手を掴み自分の左手で三つ目のおはぎを選びながら考える。そうだ、キウイバナナ餡を試してみよう。そうではなくて。
 特別というのは、やはり鈴花のことだろう。
 おばあちゃんと鈴花の間にどんなつながりがあるのか、あたしには想像もつかない。想像もつかないが、ひとつだけ確信がもてることがある。
 きっとおばあちゃんは、鈴花に対してなにかを後悔している。一生かけても取り返せないと思うくらいの負い目を感じている。きっともう会えないと思うくらいの後悔をしていたからこその、今日の喜び方なのだろう。
 では、二人の間にいったいなにがあったのか。この場で聞くのは無粋に過ぎる。もし聞いていいことならば、きっと後でおばあちゃんが教えてくれるだろう───
「よっこいしょっと。さてと、あたしも貰うかね」
「!」
 最後の追加を食卓に置き、おばあちゃんが腰を下ろした瞬間に、居間の緊張度が跳ね上がる。
 さすがに鈴花やあたしには及ばないものの、おばあちゃんもよく食べる。年に似合わず手もすごく速い。
 みるみるうちに、おはぎが一杯に乗った大皿が次々と片づいていく。もう無駄口を叩く余裕はない。
 牽制。フェイント。速攻。ありとあらゆる駆け引きがテーブルの上で繰り広げられる。もう餡を見定めているヒマはない。ヤバいものだけ大体の位置を記憶しておき、あとはひたすら手に取って食べる。ハズレを引いても気にしない。
 そして残った最後の一個。
 3人の指が同時に伸びて────
 それを掴み取ったのは、あたしの手だった。
 勝ち誇った笑顔で二人を見まわし、一口で食べる。
 ……なにが起きたか分からなかった。
 鼻から脳天を突き抜ける強烈な感覚が、体を七転八倒させる。自分の声がなにか言っているようなのだが、内容を聞き取る余裕はなかった。
 口の中が火事になったとか、そんな生易しいものではない。爆弾でも噛み砕いたみたいだ。
 しばらくしてから自分が辛さで苦しんでいることに気付いた。そんなことも分からないくらい辛かった。
 あわてて台所にかけこんで冷たい水をがぶ飲みする。少し落ち着いてから居間に戻ると、二人はお腹を抱えて笑っていた。
「やっぱり島唐辛子とハバネロのタバスコ漬けは、おはぎには向かんかねぇ」
 分かりきったことを苦しそうに言うおばあちゃんの向こうでは、鈴花が今にも酸欠になりそうな勢いで「ゆーちゃんの食いしんぼー」などと笑い転げている。
 あたしはにっこりと微笑んだ。
「鈴花ちゃん、いい子だから、ちょっとこっちに来なさいね?」
 さすがに危険感知能力も上がったのだろう、手招きすると一目散に逃げ出していく。当然あたしも追いかける。
「こら鈴花! あんたいい加減にしないと神さまの罰が下るわよ!」
「へへーん、ボク知ってるもん。神さまは怒ることはあっても人間に罰なんか下さないもんね」
「だからあたしが代わりに物理的な罰を下してやるって言ってんのよ!」
 家中を駆け回るうちに、いつしかあたしも笑いだしていた。
 追いかけっこは、二人とも神罰というか食事の直後に急激な運動をしたことで起きる腹痛に耐えられなくなるまで続いた。
 
 もうじき暗くなるという時間帯になって、あたしと鈴花は家に帰ることにした。
 もし今日は泊まっていけと言われたら甘えるつもりだったが、意外なことに、おばあちゃんはあたしたちを引き止めなかった。鈴花だけでも残るかと聞いてみたが、返事は鈴花もおばあちゃんもノーだった。
 帰り際、おばあちゃんはあたしを手招きし、鈴花には聞こえないように言った。
「……由紀、あんたも彼のことで落ちこんでるのは分かるけど、早く解決しないと一生後悔することになるよ。まだちゃんと話してもいないんだろ」
 その言葉に、思わず体が硬くなる。
 この一年間、母さんにもおばあちゃんにもずっと言われてきたことだ。
 あんなに楽しかった時間の最後に、そんなこと言わなくたって───
「こんなときに言うのは気が進まないけど」
 分かってるなら言わないでよ。心の中でそうつぶやく。
「いま言わないと、絶対にあんた後悔するから」
 普段なら黙殺しているところだが、今日だけは声を絞り出して答えた。
「だってアイツが悪いんだから、仕方ないじゃない」
 おばあちゃんはそれ以上なにも言わず、心配そうな目であたしを見送った。
 その視線がたまらなく嫌だった。
 
 正確に言えば、佐波七村という場所はもう存在しない。
 いわゆる平成の大合併は乗りきったものの、過疎・高齢化などの問題もあり、一年前についに隣接する街───志多市に吸収合併されてしまった。
 志多市とはバスでつながっているものの、間に山を挟んでいるため、昔はおろか合併した今になっても互いにあまり交流はない。
 佐波七村では合併には賛否両論あり、今でも意見は分かれているが、志多市の人間で合併を喜んでいるのは一時的に補助金の増えた役所の人間くらいのもので、大半の住民は自分たちの税金が縁もゆかりもない村の整備や老人福祉に消えてしまうと、まるで泥棒を見るような目で佐波七村のある方向を見ている。どうせ大した金額でもないくせに。
 そういった連中は時間をさいて佐波七村にこようとはしないが、中には例外もいて、佐波七村をすごく身近な観光地のように考えていたり、あるいはもっと積極的に、村の土地を安く買いたたいてレジャー施設や観光スポットなどを作り、一儲けしようとたくらむ輩も最近はたまに見かける。
「……浩司。こんなところでなにしてるのよ」
 駆けだした鈴花を追いかけて商店街からでようとした時、そういった類の人間と鉢合わせしてしまった。
「……由紀か」
 身長の高い、少しぼんやりした顔の男が気まずそうにいう。罪悪感というものが多少は残っているらしい。
 芝村浩司。あたしの幼なじみで、子供のころからよく一緒に遊んだ男だ。
 しかし一年前、佐波七村が吸収される直前に街に移住して、性格が変わってしまった。街にある同じ高校に通っているが、街に移住して以来、あたしがなにか話しかけても村の人間は近寄るなといいたげな態度で完全に無視するようになったのだ。
 きっと、こちらが本性なのだろう。
 ちょっと鈍感で、でも誰にでも優しくて、気が弱いけどぼーっとした見かけのわりに実はよく頭が回る。そんな人間だと思っていたが、実際は田舎の人間なんかとのつきあいは上辺だけで、心の底では馬鹿にしていた。そんな男だ。
 今ではお互いに無視しあう間柄だが、今日は気付かないフリも無視もできないくらいの至近距離ででくわしてしまった。鈴花のせいだ。
 その元凶は突然現れた険悪な雰囲気に怯えたように距離をとっている。
 邪魔されないなら、むしろ好都合。
 あたしは微笑みを浮かべて困ったような顔をする浩司に言った。
「まだこんな村に用があるわけ? はかどってないみたいだけど、困ってるなら頼めば誰か助けてくれるかもしれないよ? 裏切り者の頼みでも」
「いや、おれは……」
「ああそうか、地上げ屋のバイトとか始めたんだ。このへんちょっとしたバブルだしね。それじゃあ村の人には頼めないね。街の仲間でも連れてくればよかったのに」
 浩司はなにか言いかけて、諦めたように口をつぐんだ。昔からケンカになるとすぐ黙りこむのは変わっていない。変わっていないのが余計に馬鹿にしているようで、もっと腹がたってきた。
 だから、さらになにか言ってやろうとした時に。
「こーじ、こんなところにいたんだ」
 女が一人、手を振りながら浩司の隣に駆けよってきた。
 一目見た瞬間に「負けた」と思った。
 都会の美人な女の娘。そうとしか表現のしようがない。
 あたしと同じくらいの年齢の、明るい表情がよくにあう娘だ。
 顔だち自体も男が寄ってきて困るんじゃないかというレベルであるが、ばっちりと決まったメイクは買ってみた化粧品を消耗するためだけの行為の結果ではなく、どこをどうすれば自分を効果的に演出できるか計算し尽くて試行錯誤を繰りかえした末に生まれた芸術品。
 服装や小物も一つ一つチェックしていてはキリがないほど細かく気が配ってあり、それらを統合する本人のセンスも感心するより他にない。あたしなんかがファッション雑誌を買いあさって一カ月かけたってここまではできないだろう。
 テレビで見る今どきの享楽的で無気力なタイプとは正反対の、地に足のついた、自分の意思で自分の人生を謳歌している女の娘。そんな性格がひしひしと伝わってくる。
 これは敵わない。そう思った。
「ああ、どうだった?」
「いろいろ聞いてみたんだけど、ぜんぜんダメ。こーじも?」
「こっちもだ」
 女は当然のように浩司の横で足を止めると、馴れ馴れしく腕を絡める。
 浩司も振りほどくどころか嫌そうな顔ひとつしない。
 今までとは違う種類の苛立ちが胸の底から沸きあがってくる。
 別にあたしとは何の関係もないはずなのに、他の女があたしより浩司の近くにいるのを見るのはひどく気分が悪かった。
「そろそろ暗くなるし、今日はこれ以上は無理だな」
「───こーじはいいの?」
「一日二日ならなんとかなるし、無理してお前に怪我でもさせたら大変だ」
 あたしの気も知らないで、二人は二人だけの世界でなにか話し合っている。
 ……浩司もやっぱり、こういう女がいいのだろうか。
 まるで心のつぶやきが聞こえたように、女があたしのほうを見た。こんにちわ、と軽く会釈して浩司に訊ねる。
「この人、こーじの知り合い?」
「ああ」
 浩司は少し気まずそうにあたしを見て言った。
「前に話しただろ? 鳥宮由紀。覚えてるか? あの由紀だ」
 あたしの名前がでた瞬間、女の表情が露骨に変わった。
「それで由紀、こっちが───」
 浩司があたしに女の紹介をしようとしたところで、女は突然両手で浩司の口をふさいだ。
 そして、
「べーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 思いきり舌を突き出してきた。
「こーじ、行こっ」
 呆然とする暇もなく、女は絡ませたままの腕を引っ張って浩司を連れていってしまった。浩司は何度かこちらに目をやりながらも、別に抵抗するわけでもなく引きずられたまま帰っていった。
 残されたあたしには敗北感だけが残った。
 少し離れたところから見ていた鈴花は「そうしようか」と訳知り顔で言っていたが、あたしには気に留める余裕はなかった。
 
 
 2.8月20日
 
 子供の朝は早い。
 特に親戚の家に泊まりできている小学生の朝は早い。
 早いだけなら健康的でいいことなのだが、子供の場合はそれだけでは終わらない。まだ眠い高校生を巻きこんで一緒に早起きさせようとする。
 まだ6時にもなってないのに「ゆーちゃん起きてよ遊ぼうよー」などとゆさゆさ体を揺する。「あと一時間したら起こして」と言うと「わかったー」といったんは引き上げるのだが、「もう一時間だよー」と3分も経たないうちにわめきだすのはマジで勘弁してほしい。
 しかしそこで眠気に負けて「じゃあなにして遊ぶか、鈴花ちゃん考えといて」なんて言ってしまったのが運の尽きだった。
 たった一時間の浅い眠りと引きかえに、あたしは朝から鈴花と二人で村中を歩き回る羽目になってしまった。
 目的は犬探しである。
 誰のだか知らないが飼い犬が行方不明になってしまって、必ず見つけ出してあげるとあたしが眠っているうちに鈴花が勝手に約束してくれやがったらしい。
 心の中で「せっかくの夏休みなのに……」とぼやきながら鈴花のこめかみをグリグリしつつ、嬉しそうに村を駆けまわる鈴花のあとを着いていく。
 なぜか四つんばいになって草原や小川に突撃したがる鈴花の首根っこを?んで道路に引きずり戻し、四つんばいになって散歩中のよそ様の犬と「うー、うーっ」とうなりあう鈴花の頭を小突いて人類として歩むべき道に引きずり戻す。
 リードこそないものの、気分はほとんど犬の散歩だ。
 最初のうちはそこらの木や電柱にマーキングしないだけマシだと考えていたが、途中から万が一にもそんな凶行に及ばないよう目を光らせなければならなかったので余計に疲れる。
 おまけに迷子になった犬の飼い主のことはおろか、どんな犬を探すのかさえ分からないのだから、とても見つけられる気がしない。もう本当に犬の散歩だ。
 目的のない労働ほど精神に悪いものはない。
 朝食もろくに摂らずに休日の朝早くから炎天下の青空の下を歩き回ること数時間。
 昼を少し過ぎたころに。
 あたしの疲労と忍耐が限界を超えた。
 しかし鈴花に休みたいと言ったところで聞く耳ないのは目に見えている。
 ならば、やることは一つ。
 場所は家の近くにある、昔よく浩司たちと遊んだ林の入口。
 先行する鈴花に悟られないよう静かに静かに距離を開け、充分に離れたところで一人で道を引き返す。
 しばらくして背後から訴えるような声が届くが黙殺。
 ちくりと胸を刺す罪悪感。
 ……街の子なんかに、これ以上つきあう義理もないだろう。
 なにも考えずに慣れた道をたどって家に戻り、布団に潜って目を閉じる。
 すぐに眠気が訪れ、あっという間に深い眠りの世界に落ちた。
 それが鈴花との別れになるなんて、疲れた頭で想像がつくはずもなかった。
 
 目を開けると、外はもう薄暗くなっていた。
 眠い目をこすり服の乱れを直しながら、鈴花を探して家を歩きまわる。
 ───どこにもいない。
 思いついて玄関を見る。あたしが帰った時と変わっていない。
 どこか遠くから車のサイレン。
 パトカーではない。あれは消防車か───いや、救急車。
 ……冷たいものが背筋を流れた。
 事ここに至り、ようやく自分のしでかしたことを理解する。
 小さい女の子を一人、知らない場所に置き去りにした。
 車の少ない田舎とはいえ、小さいものも大きいものも、危険は多い。もし下手に山にでも迷い込んだら、最悪の場合は怪我ではすまない。
 そしてなによりも。
 一人でいることがなによりも苦手な鈴花が、自分は見捨てられて一人ぼっちになってしまったと知った時、どんな気持ちになっただろうか。
 ……街の子なんか、どうなったっていいじゃない。
 馬鹿なことを心にささやく自分の頬を打つ時間も惜しい。
 外に飛びだし、鈴花の名前を大声で叫びながら二人で歩いたコースをたどる。
 道々の家でインターホンを叩いては鈴花を見なかったか訊ねてみるが、目撃情報はない。薄暗い空にいくら声を張りあげてみても、あの鬱陶しいほど能天気な鈴花の返事はどこからもない。
 自分一人であたしに会いに佐波七村まで来た鈴花だ。こんなどうしようもない従姉に愛想を尽かして実家に帰ってしまったのなら、それでいい。
 しかし、しかしもし万が一のことがあったら───
 夕空はすでに真っ暗になり、鈴花を見捨てた林の入口に行き着いた時、あたしは耐えきれずぺたんと地面に座りこんだ。
 疲れたのではない。途中でくじいてしまった足首が腫れて、痛みと熱が無視しきれなくなったのだ。
 もちろん痛いなんて泣き言をいえる立場ではない。だがしばらくは休ませないと歩けない。
 最優先で果たさねばならない義務に取りかかることすらできず、ただ月を見上げて座っていると、冷たい風が吹き抜けていった。
 足の痛みはまだ引きそうもない。
 街灯も届かない暗闇のなかで一人ぼっち。
 鈴花もこんな心細さを感じているのだろうか。
 そう考えると泣きたくなってきた。
 こんな時、いつも隣で慰めてくれた誰かがいない。
 いつも一緒に苦労を分かち合ってくれた誰かがいない。
「みんな浩司のせいだ……アイツが変わったりするから」
 そんなことを考えるあたし自身が情けなくて、本当に涙がこぼれた。
 
「由紀? おい由紀か!?」
 懐中電灯の白い光があたしの顔を照らしたのは、それから間もなくのことだった。
 逆光のむこうにある顔は───
「……浩司?」
「そうだよ。まったく心配かけやがって……」
 近寄ってくる浩司に気取られないよう、そっと流れた涙をぬぐう。
「……なにしにきたのよ」
「なにしにって……お前こそなにやってんだよ。あんな小さな子供一人で放り出して」
 その言葉に、はっと顔を上げる。
「鈴花に会ったの?」
「ああ。一昨日から行方不明だったおれの家の犬を見つけてきてくれた」
「……あはは、はははは。あたしたちが探してたのって、あんたの家のコテツだったんだ。それで鈴花はどうしたの?」
「昨日お前と一緒にいたのは見てたからお前の家に連れてったんだが、行ったらお前が行方不明になってたから慌てて探しに来たんだよ。あの女の子はコテツと一緒に人に預けてきた」
「そっか。怪我とかしてなかった?」
「あの子もコテツも元気だったよ。ていうか、話逸らすな」
 浩司が滅多に見せない真剣な目であたしを見つめる。
「お前、あんな小さい子を一人で投げ出すような無責任なヤツじゃなかっただろう。なにがあったんだよ」
 その言葉に、思わず鼻の奥が熱くなる。
「……なによ。今さらアンタがあたしを語らないでよ」
「お前この一年、ホントにどうしたってんだよ。ずっとおかしいぞ」
「なによ……」
 ぐずつく鼻と心を押さえつけて言う。
「みんなアンタのせいじゃない。アンタが街に住むようになって、変わったから」
 街も、街の人間も、みんな嫌いになったのだ。
「そうか……」
 浩司は神妙な面持ちで言った。
「おれの母さんな、病気になったんだ」
「え?」
「ちょっとヤバい病気で街の病院に入ったんだが、世話をするのに都合がいいからって街に引っ越したんだ」
「ちょっと、おばさんそんな大きな病気したなんて聞いてないわよ!?」
「言わなかった。心配かけたくなかったからな」
「心配させてよ! 言ってくれれば一緒に悩んであげるのに! 秘密にされるほうがよっぽど嫌よ。それで、もう平気なの?」
「まだ通院は必要なんだが、これ以上悪くなることはないらしい。でもあの時は心配で頭が一杯でな」
「アンタお母さんっ子だもんね」
「うるさい。それで学校が終わったら毎日病院に行ってたし、お前が話しかけても上の空だったり、お前が弁当作ってきてくれてもあまり喉を通らなかった。ずっと悪いとは思ってたんだが」
「え……」
 頭の中が真っ白になり、それから霧が晴れるように透明になっていく。
「じゃあなに!? 全部あたしの勘ちがい!? あんな苦い思いする必要なかったの?」
「そうみたいだな」
「平然と言わないでよ! なんで言ってくれなかったのよ!!」
「そりゃお前、この一年ずっと不機嫌で話しにくかったし……」
 そこまで続けて、言いづらそうに口ごもる。
「恋人できたんだろ? 他の男が気安く声かけるのも悪いじゃないか」
「恋人? ……誰の」
「お前の」
「誰が」
「いや知らないが」
「なによそれ」
「笠月から聞いたんだよ。お前に告白したけど『好きな人がいるから』って断られたって」
 その名字に、浩司の友人の顔を思い出す。あまり話したことはないが、お節介なタイプなのは覚えている。
「笠月くんが? 告白なんかされてないけど? ……あー」
 だいたい理解した。
 あたしと浩司がギスギスしているのをみて、笠月くんは『ぐすぐすしていると他の奴に取られちまうぞ』と浩司を焚きつけようとしていたのだろう。浩司が相手では逆効果にしかならないのだが。
「そういえば近いうちに、笠月ほか何人か集まってお前の機嫌を直そうパーティーやろうって企画しててな。本当は内緒なんだが。みんなお前のこと気にしてるんだよ」
「……………………」
 目頭が熱くなる。あたしなんかの事を、みんな気にしてくれてるんだ……
「まあ万が一ジャガイモ握りつぶせるような女が暴れ出したら誰にも止められないからな。最悪、猟師に麻酔銃を渡してお願いしないと」
「……………………」
 無防備に座る浩司の首を鷲づかみにする。顔色を変えて必死にタップしているが無視。
 適当なところで放してやると、咳きこみながら浩司は言った。
「久し振りにお花畑でばあちゃんを見たな。一年前まではほとんど毎日会ってたんだが」
「毎日なわけないでしょ。一週間に5日くらいよ……痛っ」
 体に力を入れたせいで、捻挫したまま酷使した足首が痛んだ。苦悶の表情を見逃さなかった浩司が「ちょっと見せてみろ」とスカート軽くまくり上げる。顔から火が出るかと思った。
「ちょっ、やめてよ!」
「そんなこと言ってる場合か。かなり酷いな。ちょっと待ってろ」
 そう言うと、浩司は着ていたシャツを細長く破いて足首に巻き付けて固定した。
「応急処置はこんなもんだな。明日は医者に行ってこいよ」
「……うん、ありがと」
 意外とたくましい裸の胸から目を逸らす。
 ふと、喉に刺さったもう一本のトゲを思い出した。
「ん? どうした? なにか聞きたいって顔だが」
「……あたしより、アンタの恋人は放っといていいの?」
「恋人? 誰の」
「アンタの」
「誰が」
「知らないけど」
「なんだそれは」
「昨日一緒にいた綺麗な娘、浩司の彼女なんでしょ?」
 訊ねると、浩司はなぜかため息をついた。
「やっぱり気付いてなかったか。あいつ、京だぞ」
「京?」
 記憶をたどって、京という名の人物を探す。高校ではない。中学校……にもいなかった。小学校は…………よく思い出せないが、おそらくいない。そうすると───
「えええええええええ」
 京という名と一致する顔に思い当たった瞬間、あたしは大声を上げていた。
「あの京ちゃん!? 小学校に上がる前に3人でよく遊んでた、親の転勤で東京に行っちゃった、あのすごく太ってた沢渡京ちゃん!?」
「ああ」
「ぜんっぜん分からなかった……。いつこっちに戻ってきたの?」
「夏休みに入った直後だな。東京の学校に通ってたんだが、『故郷に戻らないとL5が発症しちゃう』とか言って無理やり親を説得したらしい。2学期から同じ学校だ」
「なんでこっちに戻って……ううん。なんでもない」
 昨日の態度を見ていれば分かる。浩司に会いたかったから、都会で精一杯女を磨いて戻ってきたのだ。もっとも、この鈍感男はそんなことまったく気付いていないのだろうが。
「そうだ、京からお前に伝言。『絶対に負けないから』だとさ。おれの知らないとこでケンカでもしてるのか?」
「あー、アンタに関係ないこともないけど、気にしないで」
「ん、わかった」
 それで納得するのもどうかと思うが。
「夏休みはずっと一緒だったんでしょ? どんなこと話してたの」
「お前のことだな」
「え?」
 浩司がなにを言っているのか、よく理解できなかった。
「むこうとこっちじゃテレビ番組違ったりして、あんまり共通の話題ないからな。もっぱらお前のことを話してた」
「はぁ!? じゃあなに、アンタ自分に気がある女の娘と二人きりの時に、えんえんと他の女のこと話し続けてたわけ!?」
「ん……そうなるな」
「そうなるな、じゃないわよ! あー、それなら昨日の態度も納得いくわ。アンタちょっと説教するからそこに座りなさい!」
「馬鹿、そんな足で立つな!」
 立ち上がり、よろめいたあたしを浩司が支える。
「正座しなさいって言ったでしょ!」
「おれが正座したら誰がお前を支えるんだよ」
「そうだ、あんた分裂して二人になりなさい。片方が正座して、片方があたしを支えてて。それがいいわ。そうすればあたしと京ちゃんで一人ずつ分けられるから」
「……どうやって」
「根性?」
「できるか!」
 浩司と二人で、またこうやって話せるのが嬉しかった。
 それに今のうちに女心を教育しておけば、将来役に立つかもしれないし。
「……コイツじゃ無理か」
「だから無理だって言ってるだろ!」
 自然と笑みがこぼれる。
 ……まあ、それでもいいや。
 あたしが自分で無駄にした人生の一年間なんて、簡単に取り戻せる。
 二人で笑いあいながら、そう思った。
 
 帰り道は浩司がおんぶしてくれた。
「重いな……」などとつぶやく馬鹿の首を締めあげるお約束な一幕ももちろんあったが。
 顔が真っ赤になっていることとか、裸の背中にぴったりとくっついた胸から心臓がばくばくと言っているのがバレるんじゃないかと気が気ではなかったが、鈍感男はなにも言わずにあたしを家に送り届けた。
 家に帰ると、居間の机には子供の字で『楽しかったよ!』と書かれた紙と、二人分の映画のチケット、そしてなぜか一カ月分の新聞の契約書が置いてあった。
 あたしと浩司は顔を見合わせて笑ってしまった。鈴花は将来、どんな大人になるのだろうか。楽しみで仕方ない。
「もういい時間だし、あの子の家に電話したほうがいいんじゃないか」
「そうね」
 あたしは受話器と取り上げて、電話番号を打ちこんだ。
 数コール後に鈴花のお母さんがでて、しばらく言葉を交わした。
「無事に帰ったって?」
 受話器を置いたあたしに訊ねる浩司。
 あたしは振り返って答えた。
「鈴花、一昨日に熱を出してから、ずっと家で寝こんでるんだって」
 
 あの女の子は、いったい誰だったのだろう。
 あたしの中には一つ、その答えがある。きっとそれは間違っていないだろう。
 長野県の諏訪湖の御神渡りが特に有名だが、神さまは歩く時、その足跡を下界に残すものらしい。
 テレビをつけると、ニュース番組で戸和山で今日の夕方に起きた異常気象を報道していた。なんとこの真夏に、戸和山で雪が降ったとのことだ。雪は30分間降り続き、積もる前にみな溶けて消えてしまったようだ。
 原因がなんなのか学者や気象予報士が頭を痛めているようだが、おそらく温暖化による異常気象に落ち着くのだろう。
 昔から戸和山はたびたび異常気象が見られることで知られており、今から60年くらい前の今日には、前触れもなく突然山の樹木が一斉に紅葉したと記録されている。まったく関係のない話だが、あの女の子がもーちゃんと呼んだあたしの祖母は、名をモミジという。
 またいつか、あの女の子と会えるだろうか。
 戸和さまの伝承では、神さまが訪れるのは一生に一度きりとある。
 しかし、もしもあたしに子供が生まれて、その子の子供が今のあたしくらいの年齢になった時、きっとまた会えるのではないか。そんな気がする。きっとあの子はまた泥だらけになっているから、力ずくでもお風呂に入れて、ポニーテールを結ってあげよう。
 いや。その時にはもう、それはあたしの仕事ではないのだ。
 そう考えると、寂しさがこみ上げてきた。
「泣いてるのか?」
「ううん、なんでもない」
 ───いま言わないと、絶対にあんた後悔するから。
 おばあちゃんの声が胸によみがえる。
 ごめんおばあちゃん、ちょっと遅かったよ。
 あたしの胸に重くのしかかる、一つの後悔。
 それは。
 はた迷惑で、甘えん坊の寂しがり屋で、動物みたいで、でもお節介で笑顔のにあう優しいあの子と。
 
「ちゃんと、遊んであげればよかった」

 
 
 
 
 
 
 
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ライン

 
 
「ポニーティル」「腐った豆腐」「御神渡り」という、およそつながらないと思われる三つを(意地悪く♪)お題にして斑鴉さんにおねだりしたところ、こんな素敵なお話になって返ってきました。
 しかも60枚を越える、Web向けとしては大作と言っていいほどのサイズに、感謝感激です。
 なんか、とっても懐かしい香りのする夏休みの一コマでした。
 斑鴉さん、本当にありがとうございました。

 
 
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壁紙 by 「雪だるまさんが転んだ♪」