夜の内側


 
 
作 斑鴉  

 
 
 
 
 
 
 
 
 声が聞こえた。
 つぶやくような少年の声。
 近い。角を曲がったすぐ先だ。
「ウェインっ?」
 しかしリュティシア───リーアが急いで塀の影から飛びだした時、雑草と瓦礫の続く広い道には仔猫一匹いなかった。うごめくように暗がりが揺れ、気味悪いほど明るい星夜が、伝説の領主の古城の廃墟の壁に白々と不吉な影を刻みつけている。
 リーアは腫れた目を凝らし、感覚のない耳を澄ませた。まだこの近くにいるはずだ───だが、誰の気配も感じない。蛙の鳴き声、野犬の上げる遠吠えはおろか、虫の羽音も風音もない。影が不気味に踊るばかりだ。
 体が痛い。
 特定のどこかではなく、体が痛い。
 もともと丈夫でなかった靴はウェインと離れた直後に破れ、靴を切り裂く瓦礫の道で、少女は素足を強いられている。そのうえ何度も走って転び、あえて見てみる気力はないが、体と言わず顔と言わずに、どこもかしこも傷だらけだろう。壁の割れ目や枯木の幹にひっかけて、髪も幾度か引きちぎられた。長時間、不規則で激しい動きを繰り返したため、呼吸のたびに肺がひりつく。まるで火傷をしているようだ。それでも酸素は吸わねばならず、肺の熱さをいや増すように、風こそないが、空気は凍てつくように冷たい。
 だがなによりも胸が苦しい。独りが怖い。孤独に握りつぶされそうだ。寂しい。人が恋しい。誰かの声を聞かせて欲しい。
 ついにリーアは腰を下ろして泣きだした。
 広大な古城に迷い、どちらが村か、どちらが外かも判らない。
 もう何日も、いや、何日どころか何年も、何百年も廃墟の中を走ったようだ。しかしまだ夜は明けない。朝さえ来れば両親が、兄弟が、村のみんなが自分を探して見つけてくれる。しかしこの悪夢の夜は更けるばかりで、薄れる気配も明けるそぶりもうかがわせない。
 また声がした。
 若い男と老婆の呻きが互いに反響するような声が、次第に少女に近づいてくる。
 リーアは肩を震わせた。
 弾けるように立ち上がり、悲鳴をあげて一目散に声から逃げる。
 幽霊である。
 十三歳の誕生日の夜、リュティシアはもっとも親しい幼なじみのウェインと、日中でさえ近づくことも見ることも固く戒められている古城の廃墟に踏み入った。二人とも常日頃から廃墟をめぐる怪談に興味を惹かれ、幽霊の正体以上に相手が自分をどう見ているのか知りたがっていた。
 手に手を取って瓦礫を越えてゆくこと数分、どちらともなく寒さに体を震わせた時、横手から青白く光る大きな何かが奇声をあげて近づいてきた。
 互いに庇いあいながら、ウェインとリーアは逃げ出した。暗い夜道を逃げながら、距離に余裕が生まれるたびに準備してきた魔除けの呪文やお守りを手辺り次第に試してみたが、どれもまったく効果がなかった。
 そして、抱き合ったまま逃げる二人をさえぎって、茂みから突然べつの幽霊がでた。狂おしく唸るそいつに飛びつかれ、ウェインとリーアはとっさに互いを突き飛ばし───気付いた時には、リーアは一人で道なき道を駆けていた。ちょうど今、何度もつまずき倒れながらも、必死になって声から逃げているように。
 幽霊の声が聞こえなくなり、リーアは痛む両足を止めた。
 ウェインはどこにいるだろう。
 化け物に居場所を知らせる危険を冒し、リーアは何度も大声で彼の名前を呼んでいた。しかし一度も返事はなかった。
 嫌な予感が胸を刺す。
 夜が更けるにつれ、明らかに幽霊たちと出会う機会が増えている。もしあいつらに捕まると──触れてしまうと、追いつかれると、どうなるのだろう。話はいろいろ聞いている。だが、話の中では悪魔さえ闇に返したお守りも、呪文もまったく効果がないのだ。とても今さら信じられない。
 彼らの腕に捕まった者は、彼らと同じ幽霊になる。根拠はないが、何度も肌で空気を感じ、何度も近くで見るうちに、リュティシアはそう信じていた。
 ウェインは一体どうなっただろう。
 もし彼が、あの幽霊の姿になって現れた時、果たしてあたしはどうするだろう。
 誰だっていい。ウェインでなくても構わない。誰かに会いたい。人間の温もりが欲しい。
 ─────っ!
 少女の耳に声が届いた。
 ウェインの声ではないものの、幽霊のうめきでもない。会話の中身はよく聞こえないが、大人が二人、男と女が一人ずつ……
 泣きじゃくるような声をあげ、リーアは彼女自身にも信じられないスピードで駆けだしていた。すぐ目的の二人の影が目に入る。大人にしては背の低い、見覚えのない黒髪の二人組である。
 突然のことに驚いたのか、二人はリーアを一目見るなり悲鳴をあげて逃げ出した。並んで走る後ろ姿が孤独に凍える少女の心に火を付けた。
 ───どうして逃げるの!?
 我知らず、リーアは叫んだ。
 ───ちょっと心配してくれるだけで、ちょっと優しくしてくれるだけで、本当に楽になれるのに!!
 二人はまったく聞かずに逃げる。リーアはさらに追いかける。
 瓦礫を踏みこえ、灌木を抜け、切り株をまたぎ、崩れた壁を飛び越えて、さらに地面を強く蹴り、背負い袋に手が伸びて───
 不意に激しい目まいを感じ、ふと気がつくと、二人の姿が消えていた。
 呆然とあたりを見回し、自分が一人ぼっちと知ると、リュティシアは大声で泣き、満たされぬ心を抱いて、再び不気味な夜の廃墟を歩き始めた。
 
 
「はぁ……はぁ……助かった……」
 上堀直也は膝と両手を地面について、肩で酸素を貪りながら、昇り始めた朝日にむかってそう言った。
「そう……みたい……ね……」
 彼の横では、まったく同じ格好で女性が息を整えている。背を圧迫するリュックサックが苦しそうだが、直也には支えてやれる余力がなかった。
 二人は無言で荒い吐息を繰り返しながら、どちらともなく草地に倒れた。
「優子……大丈夫か……?」
「……うん……直也は……?」
 見合わせた顔が微笑んで、血の気が徐々に戻り始める。
 上堀直也と赤城優子は怪談好きが縁で知り合い、すぐに互いに気が会うと知り、結婚を前提とした交際が始まってから三年になる。
 まとまった休みをとって、あまりよく知られていない海外の心霊名所を回ってみようと言い出したのは直也のほうで、新婚旅行に行けなくなると言いながら、優子もかなり乗り気であった。
 知られていない海外の名所に行こうと言ったのは、そういった場所の名前が広まらないのは一時のデマか、あるいはそこを訪れた者が恐怖で口をつぐむからである。
 一月をかけて、主として優子がそういった場所の情報を集め、絞り込み、リストアップして旅行の予定と日取りを決めた。
 そこそこに期待しながら足を運んだ一つ目が、欧州の田舎の古城。大当たりだった。大当たりすぎて、旅行どころか結婚式までふいになってもおかしくなかった。
「それにしてもだ」
 ここの名前は決して誰にも言うまいと固く心に誓った優子に、直也が言った。まだ大の字に寝そべったまま、疲労が激しく立ち上がれない。「ものの見事に消えちまったが、幽霊ってさ、朝になったら一体どこに消えるんだろうな」
 次第に青さを取り戻していく空を見ながら、少し考え、優子は応えた。
「きっと、いつまでも朝が来ないから幽霊なのよ」
「そうかもな」と直也が笑った。
 唐突に笑う直也を見るうちに、つられて優子も笑い始めた。笑いつつ、逃げる間に幽霊が叫んだ言葉を思い返した。あれは少女の声だった──いや、声ではないが、確かに彼女はそう言った。
 よくあることだ。幽霊がまだ生きている人間を妬み、死んだ自分の仲間にしようと嘘をつくなど、広い世界のどこででも聞くありふれた話。よくあることだ。
 でも─────
 優子は想いを打ち切って、直也に負けじともっと大きな声で笑った。
 
 考えすぎに決まってる。

 
 
 
 
 
 
 
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ライン

 
 
 幽霊とはいえ、要は肉体を持たないだけの人にすぎません。笑いもすれば泣きもします。
 ですからモンスターと違い、無闇に怖がる必要はないのです。
 ただ。
 力になってあげられないのなら、関わり合いを持たないこと。
 まして軽はずみな好奇心で彼らを刺激したりしないのが、礼節かと。
 だって、赤の他人に対してはそうでしょ? 普通。
 
 斑鴉さん。
 もの悲しくも不思議なお話、ありがとうございました。

 
 
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