越中富山 四拾弐番


作 妖之佑

 
 
 
 
「さあさあ、まだ喰うかまだ喰うか」
 黒紋付きに袴姿の瓜ざね顔の中年男が、開いた扇子をあおぎながら声を張り上げた。
 その後ろでは、尻をはしょった若い衆が太鼓をテケテンテン、そして綺麗どころが三味線をペペンペンッ、賑やかなお囃子が鳴り響いている。
 暇そうなご隠居、旅の途中らしい夫婦連れ、鼻を垂らした童とその母親……。そこに集まった皆が、俵で仕切られた即席の舞台に注目していた。
 そこでは二人の男が、もろ肌を脱いで汗をたらたらと流している。相撲を取っているわけではない。
 二人の前には、飯の詰まったお櫃、大きなタイの載った大皿、更には蕎麦に饂飩に饅頭など、様々な食べ物が所狭しと並べられていた。
 そして、それらが見る見るうちに、二人の口の中へと消えていくのだ。
 御喰争、つまり大喰い大会である。
 最初の参加者、一五名。しかるに、次々と脱落していき、残ったのは二人。
 イガグリ頭の太った若者と、ひょろりと体の細い白髷の初老の男とである。
 見物人たちの下馬評は、当然、若者有利となっていた。が、実際は闘いの終盤戦にきて、太く大柄な若者は、食べる速さが鈍ってきていた。対する初老の痩せぎすは調子を落とすこともなく、黙々と目の前の御馳走を平らげていく。
 そして、ついに――
「も…もうダメだあ」
 イガグリ頭が苦しそうに呟いて、地面に顔から倒れ込んだ。
「勝負あり!」
 扇子を持っていた行司役の中年男が叫んだ。
 おおーっ。
 群衆から、溜め息とも歓声ともとれる声がした。
「やった! やったぞ! これで貰えるんだな? 十両、本当に貰えるんだな!?」
 勝利した痩せ男は、行司に必死の形相を向けた。その顔色は、やや青ざめている。
 十両といえば、一年間、何もせずとも暮らしていけるだけの額だ。多少の無理をしてでも手に入れたいところである。
 念願叶った勝利者は、腹の痛みをこらえながら、それでも笑っていた。
 
 
「はあ……」
 先の御喰争の行われた宿場町から半里ほど離れた街道端に座り込んで、負けたイガグリ頭の若者、吾作は大きな溜め息をついた。
「また負けただあ。もうゼニもほとんどねえだなあ」
 裾の擦り切れた単の袂を探る。何枚かの鳥目が指に触れた。
「四文銭三枚と一文銭が五枚かあ……今夜は野宿するしかねえべ」
 がっくりと肩を落とした時、腹が猛烈に痛みだした。
「うぐぅっ、いてててて…………」
 先刻、無理をした――しかも負けたのだ――ツケが回ってきたのだろう。臓腑が絞られるように痛む。だが、文なしの吾作には、どうしようもない。ただ、苦痛に耐えるしかないのだ。
「もし、どうされました?」
 そんなところに声がかけられた。透きとおった、やや高めの声だった。
「……え?」
 首を曲げるのも辛かったが、なんとか声の主の顔に目をやる。
 しゃがみ込んだ吾作を心配そうに覗いているのは、華奢で小柄な人物であった。
 つやのある髪をうしろに括っているが、長い前髪だけはそのまま前に下ろしているため、顔そのものはよく判らない。小さく下すぼまりの顎と紅い唇だけがはっきり見える。
 身なりはといえば、小袖の裾をはしょり、頭に手拭い、手甲脚半、そして背には柳行李を背負っていた。その行李には懸場帳が吊され、「越中富山之薬 万金丹」と記された幟旗が括られているのだ。
 有名な富山の薬売りである。
「あ…………」
 吾作は口ごもっていた。渡りに舟と思ったからではない。どうせ彼には薬を買う余裕などない。かけられた声から、相手は若い女であろうと期待したのが、外れたからであった。
「い…いや、腹がちょっとな……けんど、あんたにゃあ関係ねえだ」
 手持ちの一七文で、次の大会に出喰わすまで、つながなくてはならない。それに鳥目で買える程度の薬では、たいした効き目が期待できるはずもないのだ。
「ほう、お腹が。では――」
 そう言いながら、薬売りは行李を下ろすと、五段ある引き出しの四段目を引っ張り出して、中から一包の薬をつまみ上げた。
「これをお試しなさい」
 差し出された包みを目の前に、吾作は警戒した。
 ――あとで、すんげえ代をふっかけるんでねえだか?
 そんな吾作の心を読んだかのように、その薬売りは笑って言った。
「まあ、騙されたと思って。ね」
 その声の調子がとても優しかったこともあって、吾作は思いきってその灰色の粉末を口の中に入れた。
 とたんに粉が喉の奥に貼り付いた。
「ぐぇふっ、ぐぇふっ、ぐぇふっ」
「はい、お水」
 むせかえる吾作に竹筒が差し出される。吾作はひったくるようにして、水を喉に流し込んだのである。
 
 
「どうです? 具合は」
 四半刻ほどして、道の脇に座ったままの薬売りが訊いた。薬の効果をよく知っているのだろう。それはちょうど吾作の腹の痛みが引いた時だったのだ。
「ああ、おかげさんで……あんたあ、おらの恩人だあ」
 隣にしゃがんでいた吾作は、心の底からの感謝を口にした。
「それは何より。あと一刻もすれば、すっかり良くなりますよ。――では、私はこれで」
 そう言って立ち上がる。
「え? んでも、まんだ薬の代を……」
 戸惑う吾作。
「いいんですよ」
 尻の砂埃を払いながら。薬売りは言った。
「一包では、一文にも満たないですから」
 この言葉に吾作は驚いた。それでは“藤八五文”と呼ばれる一八種で五文の置き薬の値と変わりないではないか。そんな安い薬なのに、これほどの効き目。吾作は、心底感激したのである。
「す…すんごいよ、あんたの薬。なんかお礼をさせてくんろ。でないと、おらの気がすまね」
 立ち去ろうとする薬売りの裾を掴んで放さない。
「困りましたね。――それでは、こうしましょう」
 少し考えてから言う。
「ちょうど私は、ひと休みしようかと思っていたところです。どうです? あそこの茶店につきあってくださいませんか? それで、あなたのお気がすめばですが」
 指差した方向に、小さな藁葺き屋根の建物がポツンと見えた。
「あ…ああ。それぐれえなら、おらにもできるだあ。おごらせてくんろ」
 嬉々として、吾作は立ち上がった。
 
 
「ああ、お茶が美味しいですねえ」
 茶店の縁台に腰を下ろし、薬売りは、厚手の湯呑みを口に当てていた。
 その横では、吾作がむさぼるように団子を食べている。
 ひと串に四個の団子で四文。薬売りにおごったひと串の残りの銭で三串を注文した。薬が効いたせいなのか我慢できず、あるだけはたいてしまったのである。
「こりゃ驚きました」
 さも感心したように薬売りが言う。
「あれだけ苦しんでいたお人の食べっぷりとは、とても思えませんねえ」
 自分の団子を紅い小さな口で噛る。
「いんやあ……」
 相手の言葉に、少し恥じ入るような顔になる吾作。
「おらぁ四男坊で、おまけに何の取り柄もなくてなあ。んだから家、放り出されただよ。んでも、ロクな職にもありつけねえ」
 悔しそうに串を歯で折った。
「ほとほと困ってたときだあ、御喰争ってのがあちこちであるって聞いてよお。これなら喰っていけるべえって思っただよ。おら、喰い意地だけは人に負けねえだから……」
「成程。それで、宿場町を廻っては、只のご飯を求めて大喰いの会を渡り歩いてらっしゃると」
 ずずっと茶をすする薬売り。
「ですが、“たつき”というものは、それだけでは――」
 相手の言葉を途中で引き継いで、吾作は楽しそうに言う。
「いんやあ、それが、賞金付きの会もけっこうあるんだあ」
「成程」
 そこで不意に吾作の顔色が曇る。
「ところがだあ」
「おや、また暗くおなりですね」
 薬売りの問いかけにうなずきながら、吾作は続ける。
「この頃、勝てなくてえよお。何べんやっても、最後で腹が言うことを聞かなくなんだあ」
 そこまで言うと、相手にグイッと顔を近づけた。あまりの迫力に、薬売りが半身を引いたほどだ。
「薬屋さん!」
「は…はい」
「あんたの薬、本当にすんげえ効き目だあ! おら、猛烈に感動してるだよ!!」
「ど…どうも……」
 吾作の目に圧倒され、薬売りは身動きの取りようがなかった。
「んでえ、ものは相談だがよお」
「は?」
 声の調子を落とし、静かに訊く。
「あれよりもっと効く薬ってえのは、ないだか? 呑んですぐに効くやつ」
「…………」
 薬売りが無言なのをしばらく見つめていたが、やがて諦めたように顔を戻す。
「ねーだよなあ、そんな都合のいいもん」
「ありますよ」
 あっさりと答えた薬売り。
「あるゥ!?」
「はいな」
 答えながら、すでに脇に置いていた行李の五段目の引き出しを開けている。
「でも、いいんですか? 大会にお薬なんか持ち込んで」
 薬を探しながら背中で訊く。
「そいつあ大丈夫だあ」
 吾作は得意げにうそぶいた。
「景気付けとか言って、酒とか芥子とかを持ち込む連中もたくさんいるんだあ」
「成程」
 やがて薬売りの手の動きが止まる。
「はい、これですよ。満腹になった時に、一包呑んでください」
 大きめの紙袋を手渡しながら、薬売りは言った。
「いんやあ、ありがてえ! ――んで、いくらだあ?」
 持ち合わせもないのに、吾作は訊いた。
「出世払いということで、御喰争でお稼ぎになってからでけっこうです。それなりに高額ですし」
 引き出しを押し込むと、そのまま行李を担ぐ。
「ただ、間違っても、空きっ腹では呑まないでくださいね。なにぶん――」
 そこでひとつ間を取ってから、言葉をつなぐ。
「――強いお薬ですから」
 一瞬、前髪に隠れた瞳が光ったような気がした。
「あ…ああ、判っただあ」
 なんともいえない不思議な気配に圧倒されて、吾作は、ただうなずくしかなかった。
「では、ごきげんよう。お団子、ご馳走さまでした」
 そんな吾作を残し、薬売りは街道を歩いていったのである。
 
 
 その晩、次の宿場に着いた吾作は、早速、そこで催されている大喰いの会に参加した。
 席を並べていた十数人は、あっという間に減っていき、吾作の他は三人になった。
 ――うっ、そろそろきただな。
 吾作は自分の腹に限界がきたのを悟った。いつもはここで諦めるしかなかったが、今は違う。
 吾作は、懐から例の薬を一包取り出すと、湯呑み茶碗の水に溶いて一気に飲み込んだ。もちろん誰も咎めはしない。周りの連中も、味を変えて食べる速さを取り戻そうと芥子やら粉山椒やらをしきりに料理にかけているのだから。
「おっ」
 効果はすぐに現われた。
 それまではち切れそうだった腹が、目で見て判るほどに引っ込んでいったのだ。おまけに、クゥーと腹の虫まで鳴く始末である。
「よおーし、まだまだいけるだどぉ!」
 勢いを取り戻した吾作に追いつける者はいなかった。
 かくして、吾作は、久々の勝利と賞金を手にしたのだった。
 
 
 それからの吾作は、連戦連勝であった。
 なにしろ、いくら腹が苦しくなっても、例の薬を呑みさえすれば、嘘のように楽になるのだから、向かうところ敵なしなのである。
 たちまち吾作は金持ちとなり、着ているものも、それまでのボロの単から、ちりめんの半衿付きに羽織までひっかけ、足元も革の雪駄で飾るようになった。
 
 
「まったく笑いが止まらねだな。そろそろ金の使い道に困ってきただよ」
 そう言いながらも、荒稼ぎをやめるつもりなどない。
「へへっ、今夜の会の賞金は、三○両だんべ。おまけに高級料理ときてるだから、楽しみだべな」
 金儲けに余念のない吾作は、今宵の下見にと、会の開かれる料亭に足を運んだ。
 が。
 そこで聞かされたのは、信じられないことであった。
「今日は持ち込みは、なんねえだとお!?」
「はい」
 焦り顔の吾作に、店の者は涼しい顔で答えた。
「なにしろ、今晩の会は高級料理対決ですから、大喰いの方々にも素材の良さを御存分に味わっていただくという趣旨なのでございます」
「い…いや、けんどお…………」
「お酒や芥子などはともかく、近頃では納豆、しょっつる、お酢、中には糠味噌まで持ち込むかたもおられますからな。せっかくのお料理を変な匂いで台無しにしたくないという、主催側のご意見なのでございます。どうか、ご理解を」
 吾作は、もう相手の説明など聞いてはいなかった。もっともらしいことを言ってはいるが、要するに、これは吾作に対する封じ込めである。吾作の強さは、いいかげん怪しまれはじめていた。これまで派手にやりすぎたのだった。
 吾作は、ふらふらと通りに出、歩きだした。
「困っただな。どうすればいいだべ。薬なしでは、おら、とても勝てねえだよ」
 あてもなく歩いているうちに、井戸の前まできてしまった。
「始まるまで、あと半刻もねえだな…………よしっ」
 吾作は何かを決めたように、釣瓶を操り、水を汲み上げた。
「へっ、何のこたあねえだよ。喰う前に呑めば、いいだけのことだんべ」
 そう呟きながら、包を開く。真っ黒な粉末を口に運ぼうとしたまさにその時である。
 
 
  間違っても空きっ腹では呑まないでくださいね。
 
 
 あの薬売りの言葉が浮かび上がってきた。
 一瞬躊躇する吾作であったが――
「か、かまうもんかぁ!」
 ぱくりと粉を含むと、一気に水で流し込んだ。
「いっぺんぐれえ平気だんべ。なんしろ、今日のは三○両だかんな。少し体を壊してでも勝たねばなんねだ」
 そう言って口の周りをぬぐうと、吾作は、来た道を戻り、大会の開かれる店に向かったのである。
 
 
 その晩の吾作の健闘ぶりは、目を見張るものがあった。
 すでに名の通ってきた吾作ゆえに、他の参加者たちも、吾作の喰う速さなどを充分研究し、闘いかたを練ってきたのである。
 が、敵たちのそんな努力をあざ笑うかのような勢いで、吾作は次々と大皿に盛られた高級料理をロクに噛みもせずに呑み込んでいく。最早、対戦相手たちに戦意はなく、見物人たちも、ただただ茫然と見守るだけだった。
 当然、大会は吾作の圧勝で終わった。
 
 
 その夜、町でも大きな旅籠の二階に宿を取った吾作は、まだ喰い足りないのか、女中に言って、ありったけの料理と飯を運ばせた。そして、それをすさまじい勢いで平らげていく。
「へっ、あの薬屋、脅かしやがるべ。いつもより、調子が良かったぐれえだんべ。これからは喰う前に呑むに限るだな」
 そう独り言を言いながらも、箸は忙しく動いている。まるで空っぽの袋の中にでも詰め込んでいるかのようである。
「こんばんは」
 不意に声がした。
 見ると、窓際にきちんと正座をした人影がある。吾作は左手の椀を口につけたまま、右手で燭台を動かした。蝋燭の明かりが相手の姿を浮かび上がらせる。
「な……あんたかあ。いつの間にへえっただ?」
 柳行李を背に負った見覚えのあるその姿は、あの薬売りである。
「おひさしぶりです」
 相変わらず、長い前髪のため、その顔はうかがえなかった。
「あんたも、この宿場に商売だか? ――いんや、それよりも、あんた! まさか窓からへえったのかあ!? ここぁ、二階だんべ!」
 吾作は廊下に面した襖に向かって食事をしていたのだから、薬売りが入るのは、確かに窓からしかなかった。
「フッ」
 紅い唇をかすかに動かして笑う。
「越中富山の薬売りに、行けぬ所なぞないのです」
 その言葉には、何か寒々しいものが含まれていた。
 それを感じた吾作だが、顔には出さずに言う。
「訳の判んねことを……んで、なんか用だんべ?」
「もちろん、薬礼をいただきに」
 当然の答えを返す薬売りである。
「あ…ああ、薬の代ね」
 思い出したように吾作は何度もうなずいた。
「いんや、悪いね。近頃、賞金付きの会がなかなかなくってよ、今、持ち合わせがねんだよ。出直してくんな」
 それだけ言うと、もう用はすんだとばかりに食事に戻る。
「良いお座敷にお泊りですね。お膳込みで、一晩金二分といったところですか?」
 ぶっ!
 思わず、飯粒が吹き出てしまった。
 薬売りは続けた。
「一月前、“かど屋”の飯盛り大会で十両。二十日前、満福寺境内での蕎麦祭で三両。半月前、“おとらや”の饅頭合戦で五両。六日前、魚河岸のマグロ丸噛りでは七両」
 吾作の箸はすでに止まっている。
「そして今日、この旅籠のお隣での高級料理対決では、なんと三○両! 他にも色々とあったようで。それなりにお稼ぎになってらっしゃる」
 淡々と語る薬売りの様子がかえって不気味であった。
「おっ、おめえ! おらをつけてたのかあ!?」
「つける? とんでもない。第一、そんな必要ありません」
 キョトンとして答える薬売り。
「越中富山の薬売りには、知らぬことなぞないのです」
 紅い唇だけが笑う。
「うっ、うるせえだ! だいたいなあ、おらが薬の代を借りたっていう証文があんのかあ!? いんや、それよりも、おらがおめえから薬を買ったっていう証しがあるのかよお!!」
「おやおや、これはこれは……おとぼけになるので?」
 小首を傾げて言う薬売りの姿は、どことなく可愛げですらあった。
「知らねえって言ってるべ。それよりか、窓からへえってくるような怪しい奴あ、お役人に突き出さねえとなあ」
 吾作はそう言って、ニタッと笑った。
「おらが宿の連中を呼ぶ前に、消えたほうがええべ」
「薬礼をいただいたら、消えますよ」
 明るく答える薬売り。
 吾作は決めた。
「ぬかしたべ。後悔すんなあ」
 大きく息を吸い込むと――
「おー……ぐっ!」
 いきなり声がつっかえた。そして、上半身が揺らいだ吾作は、その場に両手をついてしまったのだ。
「ぐっ、ぐわあぁっ! ぐおぉぉぉ〜!!」
 顔ばかりか全身から脂汗を流しながら悶絶するその様子を、薬売りは冷ややかに眺めていた。が、やがて気がついたように、右手で膝をぽんっと打つ。
「あらま。あなた、使用上の注意をお守りになりませんでしたね。食前に呑んではいけませんと申し上げましたのに」
 あきれ声で言いながら、片膝を立てた。
「やれやれ、困ったお人だ……よいしょっと。――お邪魔しました」
 立ち上がると、窓の縁に左足をかける。
「ま…待て……」
 苦痛に顔を歪めながら、吾作は、出ていこうとする背中に呼びかけた。
「おらが…おらが悪かっただよお……。薬の代は……払う、いんや! 倍返しするだあ! んだからあ…この痛み……止めて…くんろ!!」
 背中を向けたまま無言で立っている薬売り。背負った行李の幟が夜風に揺れている。
「なあ…あるん…だろ? く…す…り……」
「ありますよ」
 その希望の言葉に、吾作の歪んだ顔が明るいものに転じる。
「けどね〜」
 すぐさま、不安が甦る。
「けど? ……けど…なんだべ? ……な」
 その時、吾作の耳には、笑い声が聞こえたような気がした。かすかな、そして冷たく乾いた笑いが。
「痛みが出てから、お呑みになっても――」
 薬売りは、ゆっくりと振り返った。夜風に前髪が舞う。
「――もう手遅れですよ。クックックッ」
 吾作は見た。その瞳を。すべての者の魂を吸い込むかのような深く妖しく、それでいて美しい瞳を。
 吾作が自らの運命を悟った瞬間である。
 
 
「ぎゃあ!」
 突然の悲鳴が旅籠中に響いた。
 慌てて主人夫妻が階段を駆け上がる。
「お客様!?」
 座敷の前まで来ると、障子の桟を軽く叩いた。
「お客様、どうされました?」
 だが、返事はない。
「開けますよ。失礼いたします」
 スッ。
 滑るように障子が開いた。
 そして、夫婦の目は異様なものを目の当たりにした。
 大きな塊となった大量の御馳走が、ちりめんの高価な着物を着て横たわっていた。畳には何かが融けたような汁が染み込んでおり、気前のいいお客の姿は、どこにもなかったのである。
 
 
「やれやれ」
 旅籠の騒ぎを背に、薬売りは夜道を歩いていた。その手には四枚の小判が握られている。
「あれだけ稼いでおきながら、ほとんど使っておしまいになるとは、たいしたお大尽ぶりだ」
 溜め息混じりに言う。
「けっきょく、残っていたのは小判が五枚。とはいえ、一枚は旅籠の取り分だろうねえ、やっぱり。――座敷に置いてきたのを見つけてくれたかな?」
 そして、ふと振り返った。雪のように白く美しい顔が、月の光に冴える。
「畳だって取り替えないといけないだろうし…ね」
 そう微笑んだ唇は、夜道でも紅く光ったのである。

 
 
 
 
蔦
蔦 蔦

 
 お判りのかたには、バレバレでしょう。元ネタは落語の『蕎麦の羽織』『蛇含草』です。
 でも、なんだか『笑ゥせぇるすまん』っぽくなっちゃいましたね。
 (;^^A
 
2001.2.6.

 
蔦

 
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庭に出る
 
 
 
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