俺は殺していない
作 妖之佑
「人殺し!」
いきなりそう叫んだ女は、俺の左腕を力いっぱい掴んだ。
「いてっ! 何すんだ!?」
思わず声に出しながら、俺は女の手を振りほどいた。いや、振りほどこうとした。
が、女の力は意外に強く、簡単には離れてくれなかった。
「放せよ! ――ったく」
ようやく解放された俺の腕には、相手の手形が赤くくっきりと残っている。
「誰が人殺しだ!? 言いがかりはやめてくれ!」
そう吐き捨てると、俺はその場を立ち去ろうとした。
「逃がすもんか! 誰かぁっ、警察を呼んでぇ! 人殺しよ!!」
マジかよ? 完全に翔んじまってるぜ、この女。
俺は走って逃げようかと思ったが、それじゃ、かえって犯人みたいだ。
どうすりゃいいんだ?
迷ったままつっ立っている俺は、見るともなく、その女を見た。
けっこういい女だ。歳は俺より少し上ぐらいか。ノー・スリーブの黄緑色のワンピースからのぞく手足は長くて、とても身軽そうに見える。
そして何より印象的なのが、女の目だった。
吸い込まれるように大きく深い瞳に、俺は魅入られていた。
俺がそうやってぼんやりしている間に、三人の警官が走ってきた。誰だよ、余計なことしやがったのは。
結局、俺と、そのイカレた女は、交番まで連れていかれた。
そこで別々に話を尋かれた。事情聴取ってヤツだろうか。でも女はともかく、俺は何もやってないんだぜ。いい迷惑だよな。
まあ、俺の相手をした年輩の警官、いや、お巡りさんも、そのことは判ってくれたからいいけどさ。
そのお巡りさんの話してくれたところじゃ、あの女は、恋人を俺に殺されたって言い張ってるらしい。とはいえ、恋人の死体とかが出てるわけでもなく、おまけに女の言うことも支離滅裂なもんだから、季節の変わり目あたりによく現われる変な連中の類だろうって言ってたな。
自分は神様からお告げを受けたって言うヤツ。月の世界に帰れるように手配してくれって頼むヤツ。かの大作家が夜な夜な、自分の頭の中から作品を盗んでるって、被害届を出すヤツ。ただ延々と哲学論を語るヤツ。
そんな連中が、交番には入れ替わり立ち替わり訪れるそうだ。
「まったく、変な世の中だよ。君も災難だったね」
そう言って、お巡りさんは俺を送り出してくれた。
「逃げるわ! 捕まえてよ!!」
交番を出ようとした俺を見つけて、女が奥から駆け出してきた。すぐさま二人の警官が追いかけてくる。
「いいかげんにしなさい!」「これ以上騒ぐと、あんたのためにならないぞ!」
「何よ! どうしてかばうの!? この国は人殺しの味方なの!?」
警官たちに取り押さえられながら、女は俺を睨みつけた。
その瞳……。
「さ、いいから早く行きなさい」
年輩のお巡りさんに言われて、俺はその交番を後にした。
促されなかったら、いつまでもその場に立ちすくんでいたかもしれない。それほど、ぞっとする目つきだった。
「ハハハッ、そいつはいいや」
アパートで俺の話を聴いた尚之は天井を仰いで大笑いしやがった。
「ひょっとして新手の勧誘かもな。――まっ、警察沙汰になったってのが、そいつが未熟だったワケだ。運が良かったな、川本」
そう言って缶ビールを飲み干す尚之。
「他人事だと思いやがって。たいへんだったんだぞ」
「わりぃわりぃ。けどよー、クックックッ」
まだ笑ってやがる。ホントにゲラだよ、こいつは。
「ふんっ」
俺は左の腕を右手の爪でポリポリやりながら、鼻を鳴らした。
「どうした?」
不意に尚之が訊いてきた。
「何が?」
腕を掻きながら、俺が訊きかえす。
「それだよ。かなり赤いぞ」
指差されて初めて俺は自分の腕を見た。なるほど、掻いてた部分が真っ赤になっている。無意識にずっと掻いていたからだろう。でも、なんで無闇に痒いんだ?
「おっと、もうこんな時間か。んじゃ俺、そろそろ行くわ」
来るのも突然だが、帰るのもいきなりな奴だ。尚之は、赤くなった腕を見ている俺が何も言わないうちに、もう靴を履いている。
「じゃあな」
ひと言かけるのとドアを閉じるのとを同時にやって、出ていった。
「うわあっ」
どすんっ。
廊下で鈍い音がした。
何だ? 尚之のヤツ、何かやらかしたのか? ここの管理人、うるさいんだぜ。
俺は尚之よりも自分の事を心配しながら、立ち上がってドアを開けた。
「おい、どうした?」
「つてて〜、滑っちまったよ」
コンクリートの廊下に尻餅をついた姿勢のままで、尚之は言った。
「何か溢したのかよ? ヌルヌルしてるぜ」
「俺じゃねーよ。誰か他のヤツだろ」
答えながら、俺は床を見下ろした。
アパートの廊下を薄暗く照らす裸電球の頼りない光が、そこの黒々とした跡に反射していた。
しゃがんでみる。
「油……じゃあねーな。ちょっと臭いや」
顔を近づけた俺だが、触ることはしなかった。それでも、その黒いぬめりからする青臭い嫌な匂いが鼻に伝わった。
「あー気持ちわりぃ。手についちまった」
そう言いながら尚之のヤツ、アパートの壁で手のひらをゴシゴシやっている。だから、管理人がうるさいから、よせっての!
「んじゃな」
俺の気も知らず、尚之は錆びた鉄階段を駆け下りていった。
「ちょっと、川本さん」
それから一週間ほどしたある日の夕方、アパートに帰ったところの俺に、管理人の婆さんが声をかけてきた。まさか、こないだの事じゃないよな。
「はい?」
俺は努めて平静に応えた。そんな俺に近づいてきた管理人はニヤニヤ笑っている。どうやら、怒られるわけじゃなさそうだ。やれやれ。
「何か用ですか?」
腕をポリポリやりながら、俺も笑顔をこしらえる。管理人には愛想良くしておくのに限るからな。
「あら、どうしたんだい? 虫にでも刺されたのかい?」
俺が左腕を掻いてるのを見て、婆さんが訊く。
「いえ、ちょっと……で、何です?」
俺の言葉に、そうそうという顔で言った。
「あんた、真面目だと思ってたのにさ、お安くないねえ」
「はあ?」
いきなり、何言いだすんだぁ、この婆さん。
戸惑って目を円くする俺にはかまわず、管理人は話を続けた。
「とぼけたって駄目さね。住人の事はみーんな知ってるのさ、あたしゃ」
知ってるって、何をだよ。
「そりゃ、あんた若いから無理もないけどねえ。でもさ、女の子を泣かせちゃいけないねぇ。ヒッヒッヒッ」
その笑いかたはよしてくれ。おかげで俺は仲間内から「鬼婆館の住人」なんて言われてるんだぜ。
「あの〜、いったい何の事です?」
笑っている婆さんに俺は訊いた。いつもなら相手にしないのだが、どうにも話が見えなくて、気になってしまったのだ。
「おやおや、まだおとぼけかい?」
気色の悪い笑いを顔中のしわに染み込ませて、管理人は言った。
「じゃあ言ってあげるよ。ここんとこ毎晩、あんたの部屋の窓を見上げてる女の子、ありゃ誰だい?」
何だって!? 毎晩俺の部屋を見てるって?
「誰です? 俺、知らないですよ」
「あらま、薄情だねえ。一度っきりのお遊びってヤツかい? それじゃあ女の子が可哀相だわねえ」
呆れたような婆さんの口調に、俺は少しムッとした。
「それで、どんな人なんですか? その女の子って」
俺の表情の変化を見て、管理人は少し言いかたを和らげた。
「あ…あら、本当に憶えがないのかい? 嫌だよ、それならそうと言っておくれよ」
「どんな人なんです!?」
取り繕うのを遮って、俺は訊く。
「怒っちゃ嫌だよ――ええと、そうだねえ。あんたより二、三歳年上かねぇ。目がパッチリしててさ。手と足がそりゃあ長くって、いいスタイルしてたよ。肩出しの黄緑色のワンピースをいつも着ててさ。違う服を着てきたことがないから、てっきりあんたが買ってあげた思い出の服だとばっかり思ってたよ」
あいつだ!
俺を人殺し呼ばわりしたあの女だ!
でも、どうして俺のアパートが判ったんだ? 警察が教えたのか? 畜生、あのお巡り、人の良さそうな顔しやがって。
「その女、どこから見てるんです?」
こうなりゃ、警察なんてアテにはできない。俺自身で何とかしてやる。
「すぐ裏手のあの林さ。奥に池のある」
なるほど。そこなら隠れて見張るのには都合がいい。池が汚くて気味悪いもんで、夜は誰も近づかない所だ。おかげで、近くのこのアパートまで嫌われものなのだ。家賃が安くて、俺は助かっているが。
にしても大胆な女だぜ。そんな所に夜中にじっとしてるなんて…………。
「いつもなんですか?」
俺は婆さんに訊いた。
「ああ、ほとんど毎晩だねえ。もっとも、あたしだってずーっと見てるわけじゃないからねえ。でも本当に毎晩欠かさずかもしれないよ」
冗談じゃない。なんて気持ちの悪い話だ。まさか、この俺がストーカーに狙われるなんてよぉ。
だが、へこんでる場合じゃない。
「じゃあ、お願いできますか? 今度その人を見たら、すぐに俺に知らせてほしいんですけど」
「ああ! 任せときな♪ 見つけたら、すぐあんたの携帯にかけてやるよ」
ウキウキして答える管理人。なんだか楽しんでねーかぁ、この婆さん。でも、こういう事には、実に頼りになる人ではあるな。
俺はニコニコ顔の管理人に見送られて、階段を上がっていった。
監視兵は、すぐに成果を上げてくれた。
その晩、11時頃、テーブルに置いた俺の携帯が鳴った。
『川本さん? あたしだよ。来たよ、来てるよ!』
管理人の婆さんだ。
「あの女ですね? 例の林に?」
『ああ。ああ、そうだよ。今も、じいっとあんたの部屋を見つめてるよ』
婆さんの興奮が携帯を通して伝わってくる。きっと管理人室の窓から、スパイさながらに様子をうかがっているんだろうな。年寄りは子供っぽくなるっていうけど、本当だな。
俺は、年甲斐もなく探偵ごっこに興じている婆さんの姿を想像し、腹の中で笑った。
「判りました。俺、これから出ますから、そのまま見張っててください」
『直談判かい? しっかりおやりよ』
「相手が動いたら――」
『ああ、判ってる。知らせるよ。電話は切らずにおくからさ』
実に協力的な管理人だ。普段からこれだと、住み心地もずっといいのに。
そんなことを考えながら、携帯を手にしたまま、そっと部屋を抜け出す俺。足音を立てないように、薄明かりに影を落とさないように注意して、いったん表側に出る。それから大回りをして池の林へと歩いていった。さながら、敵に忍び寄る特殊部隊だ。これじゃ、俺も婆さんのことは笑えないな。
思わず苦笑する俺だったが、すぐに相手の姿を見つけて、顔を引き締めた。
アパートを凝視している人影。その背後から、慎重に近づく俺。そして――
「おい、あんた」
俺の声に驚いて振り返る。
大きな瞳、長い手足、黄緑色のノー・スリーブ。一週間前に見たままの姿だった。
「……………………」
女は言葉を失っていた。部屋にいるとばかり思っていた俺の、突然の出現に肝を冷やしたんだろう。
「警察にデタラメ言ったあとは、ストーカーか。いったい、どういうつもりだよ」
俺は不愉快さをむき出しにして言った。たとえ美形でも、こんな女には今すぐ消えてほしいぐらいだった。
「……逃がさない」
ややあって、女が言った。絞り出すような凄味のある声だ。
「なんだって?」
「逃がさないわ」
やっぱり、まだ俺を仇呼ばわりしやがる。イカレてるぜ。
「俺が何をしたってんだ?」
「まだとぼける気? あたしの大切な人を殺めておいて。この極悪人!」
「俺が殺した? 知らないよ。いったいいつの事だ?」
まったく身に憶えがないのに、ここまで言われて手も出さないのだから、俺もよくよく人がいいと思う。
「ほんの十日前だわ。忘れたなんて言わせない!」
今にも襲いかかられるのではという迫力だった。俺は思わず後ずさりした。
「だ…だったら、もう一ぺん警察に言えばいいだろっ」
俺は半ばヤケ気味に言い放った。正直、もうこれ以上話をしていたくない、というのが本音だった。
「警察は役に立たない。よく判ったわ」
それは俺も同感だった。なにしろ、こいつに俺の住所を教えるぐらいだからな。
「だから雨が降るのを待ってるのよ」
「雨?」
まいったぜ。言うことに脈絡がない。
「運がいいわね、あなた。この一週間、晴続きで。――でも、悪運ももうおしまい。二、三日中には雨が降るから」
おいおい、今度は天気予報かぁ? マジ危ねーぜ、こいつ。早く逃げないと、とんでもない目に――
「それまで逃がさない。あなたは報いを受けるのよ!」
俺の腹の内を読み取ったかのように、女の瞳が大きく開いた! 夜中なのになぜそれが判ったのか。が、とにかく、瞳が開いたんだ。その目に見据えられる俺。
『ちょっと、川本さん! どうしたんだい!?』
俺の持っていた携帯から、婆さんの声がした。そうだった。電話、つなぎっぱなしだったんだ。
「そうか。あたしを見張っていた管理人か」
俺を見つめるのをやめた女は、納得したような表情をした。そして身をひるがえすと、奥の池の方に走りだした。
「憶えておいで!」
女の捨て台詞だった。
たぶん数秒だったのだろう。俺がつっ立っていたのは。
「逃げた……のか?」
と――
バシャーン!
水の音だった。
まさか身投げしたんじゃないだろうな。冗談じゃない。そんなことされちゃ、俺の立場がヤバくなる。
だが、池まで出ても女の姿はなく、月明かりに浮かぶ水面も静かなものだった。
「やっぱり逃げたのか――ったく、言いたいだけ言いやがって」
俺はブツブツ言いながら、左腕を掻いた。今まで女のことで忘れていた痒みが息を吹きかえしていたのだ。
そうしながら、仕方なくアパートへと歩きだす。ぎゃーぎゃーがなり立てる携帯を手にしたままで。
「本当に災難だったねえ、川本さん。ありゃあ絶対におかしいよ。嫌だねえ。家族とかは何してるのかしらねえ。野放しにされちゃ、こっちが迷惑だよ」
翌朝のその言葉のあと二晩、管理人の婆さんは何も言ってこなかった。
女が来なくなったのだろう。あんな捨て台詞を吐いても、やはり俺に見つかったのがこたえたのかもしれない。これですめば、まあいいのだが。
そして三日後、女の言葉どおり、久々に雨が降った。
「ウソだろ!?」
俺は叫んだ。
「静かにするように」
ヤベッ。講義中だったんだ。
「――であるから、この部分の解釈は…………」
俺は背中を丸めて机に貼り付いた。元々講義なんか聴いちゃいないが、たった今受けたショックで教授の声がまったく耳に入らなくなってしまった。
暇潰しに観ていた液晶テレビから流れているローカル・ニュース。とある溺死事故のことをやっていた。亡くなったのは――
「なんで婆さんが?」
毎日見てたあのシワクチャ顔が、モニターに映っている。そういえば今朝は会わなかったけど、でもまさか……。
おまけに婆さんの遺体の発見されたのが、あの池、そう、気味の悪い例の女が消えたあのアパートの裏にある池だったのだ。
「びっくりだよな。ありゃあ、殺しても死なねーってツラだったのによ」
学食でぼーっとしていた俺の背中に、尚之が声をかけてきた。
「戻んなくていいのか? 住人としてよ」
「どーせ夜には帰るからな。でも正直、帰りたくない気もするんだ」
答えるふうでもなく、なんとなく俺は言った。
「へー。まさか、おまえが殺ったってんじゃねーだろな?」
思わず俺は立ち上がり、尚之の顔を睨みつけた。
「お…怒るなよ。冗談だって」
俺の形相に、一歩下がる尚之。
「ふぅ…」
息を抜いて、ふたたび腰を下ろす。
「悪かった」
そう詫びる顔を見上げようとして、尚之の右手が包帯でグルグル巻きなのに気づいた。
「何だよ、怪我でもしたのか?」
「あ、これか」
俺の向かいに座って、苦笑いしながら右手を見つめる。
「何だか知らねーが、かぶれちまってよ。医者に診せたら何て言ったと思う?」
俺が無言で首を横に振るのを見てから、尚之はニヤッと笑って続けた。
「生き物の毒にやられたんだろって。毛虫とかゲジゲジとか、漆の木とかにさ」
「おまえ、そんなの触ったのか?」
今度は尚之が首を横に振った。
「いいや。だからそう言ってやったよ。そしたら医者のヤツ、こう言い返しやがった。意外に身近なものでも毒を持ってるんだと。例えばアマガエルのヌルヌルなんかも毒なんだってよ」
「ヌルヌル?」
うなずく尚之。
「あれだ。こないだおまえんトコで転んだろ? あの時に手についたヤツ」
ああ、そういえば、そんなことがあったな。
俺は左の腕を掻きながら、うなずいた。
「あ? おまえもかぶれかぁ?」
尚之が俺の様子に気づいて言った。
「いや……うっとうしいから、こうしてるだけだよ」
俺は答えた。この数日、痒みが止まらないから、サポーターを着けているのだ。それだけだ。
「ちょっと見せてみろよ」
「いいよ。よせって――あっ」
俺が止める間もなく、尚之のヤツは俺の腕のサポーターをずらしてしまった。なんて早業だよ!?
「おい……こいつぁ…………」
絶句してやがる。確かに多少は赤くなってるけど、そこまで驚くこともないだろう。
「見てみろ」
尚之は手の包帯を乱暴に解くと、その手のひらを俺の目の前に突き出した。全体が赤く腫れ上がっていた。
「似てるだろ?」
そりゃ、赤くなってるんだから、似てなくはないさ。でも、だからって……。
「おまえのも、すぐにかぶれになるぞ。その様子だと、明日にも」
嫌なこと言いやがる。
「でもよ、それよりも気にならねーか?」
だから、何が?
「その跡、手の形に見えるんだけどよ…」
偶然だ、偶然。
「指が細くて長いな。女の手形みてーだ」
女? 冗談じゃない!
「でも、爪の跡だけ、針みてーだな。人の手じゃないのかも――」
「いいかげんにしてくれ!」
とうとう俺は叫んだ。周りの連中がびっくりした表情で俺たちを見た。ふんっ。そんなの、かまうもんかよ!
「いったい何が言いたいんだ? 俺の腕がちょっと腫れたからってなんなんだよ!? おまえのかぶれだってそうだ。あのヌルヌルが原因だったらなんだってんだ? まさか、俺のせいだとでも言うつもりかよ?」
「そうだ」
!?
い…今何て言った、尚之のヤツ。俺のせいだって……?
「そうなんだよぉ。おまえのせいなんだよぉ、こんな手になったのはよぉ」
尚之の表情が一変した。何かに取り憑かれてるみたいだ。
「毎晩毎晩、耳元でうるさいんだよぉ。おまえのせいだ、おまえのせいだってよぉ。俺、関係ないだろって言っても、おまえの友だちってだけで、責められるんだよぉ」
こ…いつ、何言ってやがる?
「早く謝っちまえよぉ。でないと俺まで……俺まで池に引きずり込まれちまうんだよぉ…………」
「池」!? 尚之まで!? 「まで」ってなんだよ、「まで」って。まるで他にも池に引きずり込まれた奴がいるみたい――
「!!」
俺は尚之のそばにいるのに耐えられなくなって、その場を逃げ出した。
「この人殺しぃ!!」
俺の背中に半ば狂った尚之の罵声がぶつけられる。
俺は必死に走った。追いすがろうとする何かから逃れるように。
朝にはやんでいた雨が、また降りだしていた。今夜は強く降るらしい。
傘も持たずに駅から一気に走った俺は、ズブ濡れになってアパートに帰り着いた。
管理人が死んだというわりには、静かだった。というか、誰にも会わない。まあ、隣の部屋の奴の顔も名前も知らないんだから、関係ないが。
ガチャン。
部屋に駆け込んだ俺は乱暴にドアを閉めると、すぐに着ている物を脱ぎ捨て、適当に着替えると、タオルも使わず畳に転がった。
なぜ、婆さんは死ななきゃならなかったんだ? 確かに詮索好きだったし、出しゃばりだし、お喋りで口うるさいし……でも、悪い人じゃない。そんな婆さんが何したってんだ?
尚之のヤツは、いったいどうしたってんだ? 急に俺を人殺し呼ばわりしやがって……。あれじゃ、あの女みたい――
そこまで考えて、俺は起き上がり、ブルブルと濡れたまの頭を強く振った。水滴が畳に飛び散るのにもかまわない。
「俺は殺しちゃいない。誰も。いいや、虫一匹殺しちゃいないぜ!」
だが、その時、ふと思い出したのだ。
二週間ほど前だったか、今日みたいに雨の強い日だったっけ。
俺は向かい風が叩きつける雨粒を傘で必死に防ぎながら駅に向かっていたんだ。前が見えないけど、仕方ない。学校に濡れて行くのは嫌だからな。
「わっ」
突然、俺は転んだ。足が滑ったのだ。
「痛ってえ……なんなんだよお」
せっかくの努力も空しく、俺は尻をベトベトに濡らしてしまった。いったん戻って着替えるしかなさそうだ。
「バナナの皮でもあったのかよ――何だ、こりゃ」
立ち上がって濡れた道を見下ろす俺の足元に、小さな黄緑色の物がピクピク動いている。
アマガエルだ。
雨が降ってるので、こんな道の真ん中まで出てきてたのだろう。そいつを俺が踏んづけたってワケだ。
「バカヤロー! てめーがウロウロしてやがるから、俺がこんな目に会うんだぞ!!」
雨に濡れてしまった俺は、腹立ち紛れに、まだ息のあったアマガエルを思いっきり踏み潰してやった。あっさりとペチャンコになるカエル。
「あーあ、ついてねーなー」
俺はそのままアパートに逆戻りした。
「あの時…………」
俺は、カエルを踏み潰した時の、靴底から伝わってきた何ともいえない感触を思い出し、ブルッと体を震わせた。
あの時はイライラのせいもあって気にも留めなかったけど、今思い出してみると、気持ちの悪い感じだった。
――やけに静かだ。
帰ってから、どれぐらい経ったのだろう? 外はすっかり暗くなっていた。
俺は明かりを点けようとして、なぜか思い留まった。窓が明るくなれば、俺が部屋にいることが判ってしまう。そう思ったのだ。――でも、誰に?
「確かにカエルが死んだのは、俺の不注意かもしれないけど……」
誰に言うともなく呟く。
「でも、あれは事故だ」
言い訳にもならなかった。俺は怒りにまかせて瀕死のカエルを確かに殺したのだ。
急に腕が痒くなった。
俺はサポーターを外す。
「なんなんだよ、これ!?」
赤い腫れが、くっきりと浮き出ていた。
手形だ!
これは手形だった。
しかも昼間まではそうだった人の手では、最早ない。
狭く小さな手のひら。四本あるうち、やたらに長い二本の指。針のように尖った爪跡。
見たことがなくはない形だが、俺は考えないようにした。
ピンピロリッピッポーン♪
「わっ!」
いきなり鳴り始めた曲に、俺はひっくり返ってしまった。
「お…脅かすなよ」
そう言いながらも、それでもほっとしながら、放り出したままのズボンのポケットを探る。そして、場違いに明るく鳴っている携帯を耳にあてがった。
「はい、川本――」
『あやまれえ〜』
「うわっ!」
グシャッ。
思わず携帯を壁に叩きつけてしまう。砕けながらも、そいつは俺に喋り続けている。狂った尚之の声で。
ケロ。
「ひっ!」
俺は悲鳴を上げかけて、口をふさいだ。
裏の池からカエルの声がしたのだ。雨降りなのだ。あたりまえだ。
ケロケロ。
「え?」
今度は少し近くから聞こえた。地面に上がってきているのだろう。
ケロケロケロ。
「!」
さらに近かった。アパートの壁に貼り付いていのかもしれない。
ケロケロケロケロ。
「!!」
今度は廊下だ。階段を上がってきてやがる。
「なんだよ、何怯えてんだよ、俺。相手はカエルだぞ。あんなのが来たって、また踏み潰してやれば、いいじゃねーか!」
思わず声に出した。その時――
ビチャッ、ビチャッ、ビチャッ。
水の音がした。濡れた長靴か何かで歩くような音だ。
大きい。あれはカエルじゃないぞ……。
ケロケロケロケロ!
「うわああっ!」
今度は悲鳴を上げてしまう俺。声は扉のすぐ向こうからだった。
ケロケロケロケロ!
カーテンの向こうから。
ケロケロケロケロ!
天井から。
ケロケロケロケロ!
下の階から。
ケロケロケロケロケロケロケロケロ!!
そして、周囲すべてから。
ケロケロケロケロケロケロケロケロ!!
耳を押さえて、俺は必死に叫んだ。
「やめろ! やめてくれぇ!! 俺は…俺は……殺してない! 殺すつもりはなかったんだあ!!」
ケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロケロ!!
そんな俺の言い訳をあざ笑うかのように、カエルの鳴き声は、俺を取り囲んでいったのだった…………………………………………。
実はこれは、『parts』の管理人さん・遠野リリコさんの主催なさっている「カエル・フェア」用にと、書き始めたものでした。
が、「カエル・フェア」ではネタバレになると気づき、お倉入りとなりました。で、今回、完成まで力ずくで持っていったというしだいです。
2001.2.16.
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庭に出る
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