華麗麺麭冗句(カレーパン・ジョーク)
作 妖之佑
重苦しい空気が漂っていた。
誰も何も言わずにじっとしている。
コチコチという古い柱時計の振り子の音だけが、時が止まっていないことを示している。
八畳間の座敷。その中央に敷かれた、しわの寄った花柄の布団。そこにくるまっているのは、布団に負けず深いしわをたたえた白髪の老人である。
老人の右側には赤いTシャツにジーンズ生地のスカート姿の一七、八の髪の短い娘と、それより十は離れているオーヴァーオールを着たオカッパ頭の少女が神妙な顔つきで座っている。
左側では、メガネをかけた白衣の男が、老人の手首を右手に取り、自分の腕時計を見つめている。その脇の、白衣にカーディガンをかけた女性は、注射器の準備をしていた。
やがて顔を上げた白衣の男は、隣の女性から注射器を受け取ると、老人の腕に針を突き立てた。老人は眉一つ動かさない。
「では、我々はこれで」
白衣の男が腰を上げ、女性も従う。
「は…はい」
あたかも目が覚めたかのように、娘が応えた。
「なにぶん、お歳ですから……」
玄関へ向かう廊下を歩きながら、男は言った。
「できれば入院なさったほうがいいと思いますが」
「はあ……、でも家にいたいというのが本人の希望ですから」
つき従う娘が答える。
「判ります。私でも、きっとそう望むでしょうな。――いや、医師としてはバツな発言でしたな。それでは、お大事に」
そう言って、医者は帰っていった。看護婦はついぞ無言のままであった。
「ねー、お爺ちゃん」
お茶を吸い飲みに移しながら、娘が訊いた。
「何か欲しい物ない?」
「なーい?」
オカッパの少女が言葉をくりかえす。
「そうさのう……」
老人が口を開く。消え入りそうなほど弱々しい声である。
「カリーパンが喰いたいのう」
「…カレーパン?」
娘は訊きかえした。
「そんなのでいいの? もっと高い物でもいいんだよ」
「いやいや」
微笑んで促す娘に対し、老人は首を横に振った。声こそ細いが、受け答えそのものはしっかりしている。
「あのカリッとした衣、その中から染み出てくる油、ふわりとしたパン生地、そいでもってピリッと辛いカリー……ああ、無性に喰いたいのう」
唄うように喋る老人の表情は、まさに、天にも昇るかのようであった。
「判った」
娘は吸い飲みを隣の少女に手渡すと、立ち上がった。
「じゃ、これから買ってくるわ。――マコ、お爺ちゃんのこと、頼むわね」
「ウン、任せといて」「すまんのう」
老人と、そしてしっかりとうなずく妹にも笑いかけ、娘は出ていった。
「あれー? ないぞー?」
棚を一つ一つ見て回りながら、娘は呟いていた。
家から歩いて一○分ほどの所にあるパン屋である。
「困っちゃったなー」
当然、他の店でも買えなくはないのだが、病床の祖父に食べさせるのだ。美味しいのに越したことはない。ここの手作りパンを買えないことに、彼女は困惑していた。
「おや、チエちゃん」
不意に背中から声がかけられた。
振り向くと、丸く膨れあがった中年女性が、焼きたての食パンの山を抱えて奥から出てきたところであった。
店主のおばさんだ。時々買いにくるチエとは、そこそこ顔見知りになっている。
「何か捜し物かい? 注文あったら受けるよ」
渡りに舟の言葉である。
「あ、おばさん、助かるわぁ」
安堵の声がもれる。
「いいんだよ。チエちゃんはお得意様だからね。――で、何が欲しいんだい?」
空の棚に食欲を誘う香りを立てている食パンを並べながら、おばさんは言った。
「カレーパンが欲しいんだけど」
むにゅっ。
おばさんの動きが止まった。その手には、真ん中を握り潰され、二つに分裂しかかった食パンがぶら下がっている。
「…………………………………………」
「あ…あのぉ……」
凍りついたままのおばさんに、おそるおそる声をかけるチエ。
「へ?」
ふと気づくと、店内のお客たちやレジの女の子が、こちらをうかがっている。その目は何か恐ろしいものを見ているかのようであった。
トレーに載せたショコラデーニッシュとアップルパイとクロワッサンが床に落ちるのにもかまわず固まっているOL風の若い女性。何か言おうとする子供の口を、蒼ざめた顔のまま手で押さえる母親。ただただ茫然と立ちすくむ老夫婦。等々……。
――な、なに?
異様な雰囲気に取り囲まれていることに気づいたチエは戸惑った。
と。
ガバッ、グイッ、ドドドドドッ。
いきなり体を抱えられ、そのまま店の裏に運ばれた。
「あんた! ウチの店を潰す気かい!?」
薄汚れた洗濯機の横で怒鳴られる。
「は?」
訳の判らないチエは、どうとも答えようがない。
「人前であんな言葉、口にして!」
「あんな言葉って……?」
少し考える。たった今、店先で喋った言葉といえば――
「カレーパンのこと?」
「わーわーわー!!」
焦った表情で両手をバタバタさせるおばさん。警戒した目つきで周囲を見回す。
「よしとくれ!」
大アップになって怒鳴る。
「カレーパンはね、先月から全面禁止になったんだよ! 非合法化されたんだよ!!」
「はあ?」
寝耳に水であった。
「おばさん、からかってるんでしょ?」
チエは疑いのまなこで相手を見た。が、おばさんの表情は真剣そのものだった。
「あ…あんた、新聞とか見てないのかい?」
信じられないという顔つきで、質問する。
「だって、お爺ちゃんの世話とかで忙しくって。テレビだって、しばらく観てないから……」
その言葉に、おばさんの表情が和らいだ。チエの立場は、よく知っている。病気の祖父の面倒をみるために、自分のことをそっちのけにしているのだ。買い出し以外、ロクに外出もしていない。そんなチエが世間の動きに疎くとも、責めることはできなかった。
「そ…そうだったねえ。ごめんよ、強く言っちまって」
詫びるおばさん。チエは首を横に振った。
「ううん。知らないあたしがいけないんだ。――それで、本当なの? 今の話」
もちろん、カレーパンの件である。
「ああ、本当さ。なんだか知らないうちに法律ができちゃってねえ。ウチの売れ筋だったから、正直痛いよ」
ここのカレーパンは評判で、遠くから買いに来るお客も少なくなかったほどなのだ。
「じゃーさー」
チエは考えながら言った。
「作り方だけ、教えてくれない?」
「とんでもない! ダメダメ!!」
ほとんど間を置かずに拒否された。
「なんでも麻薬よりも罪が重いんだそうだよ。だから勘弁しとくれ」
おばさんの怯えようからは、真実の重みが伝わってくる。
「そっか……あっ、じゃ、バイトの浩二くんに会わせてよ。彼って“カレーパン命!”だから、きっと協力してくれる――」
そこまで言って、チエは口ごもった。おばさんが何やらブツブツと呟いているのだ。
「……あれは…そう、先週の定休日のこと。あの子が調理場を貸してほしいって言ってきたのよ…………ああ、今思えば、貸さなけりゃあよかったのにねえ」
「…………?」
「まさか密造しようとしてたなんて……そこまで思いつめてたんだねえ。可哀相に」
「あ…あの〜」
「警官隊がいきなり踏み込んできて、あの子、連れていかれて、それっきり……。面会させてって頼んでも、聞いてもらえない。今頃、どうしているのかねえ…………」
最早、おばさんの頭の中に、チエの存在はなかった。
「困ったなー」
表通りを歩きながら、チエは途方に暮れていた。
おばさんを疑う訳ではなかったが、念のため他のパン屋も何件か回ってみたのだ。しかし、どこにもカレーパンはなかった。さすがに問い合わせる気も失せていた。
「せめて作り方だけでも判ればなー」
インターネットの裏サイトを探すしかないかと考えていたその時である。
「おっ」
前方から歩いてくる人物に、チエの目が止まった。
金色に染めたモヒカン頭、吊り上がったサングラスに、くわえタバコ、背広に腹巻き、雪駄履きの痩せた若者が、すれ違う女性を品定めしながらチャリチャリと歩いていたのだ。
その外見に皆が敬遠する中、チエはタタタッと駆け寄っていく。
「おっす、ケン」
右手を上げて明るく声をかけた。
すぐに相手の顔がチエの方を向く。
「おう、チエやんけ」
幼なじみのケンであった。歳はチエよりも三つ上。だが、近所のお兄さんというよりは、いじめられっ子のケンとして、チエの記憶に残っている。もちろん、いじめたのはチエである。
「久しぶりやな。元気やったか?」
精一杯強がって挨拶するケン。そんな相手に、チエは単刀直入に訊いた。
「あんた、まだヤクの売人やってる?」
一瞬、周囲の空気が止まった。そして次の瞬間――
「んなこと、でけー声でゆーな!!」
汗を飛ばしながら叫ぶケンの声のほうが数倍大きかった。
「真面目なおまえが言うてくるんや。なんか事情があんねんな?」
ビルの裏手に場所を移したあと、ケンは言った。
コクリとうなずくチエ。
「判った。力んなったるわ。――んで、何が要るんや? あんなんとかこんなんとかそんなんとか……何でもあるで」
指折り数えるケンに、チエは言う。
「そーゆーんじゃないんだ。でも、あんた、その道じゃ有名なんでしょ?」
相手の自尊心をくすぐる言葉をかける。
「かっかっかっ♪」
嬉しそうに笑う。
「ま、誉められた手前、無理にでもなんとかしたらなあかんな」
そして顔を近づけて押し殺した声で訊いた。
「ブツは何や? 言うてみ。象牙かベッコウか、チャカか、プルトニウムか?」
「えーっとねー」
チエはケンの顔色をうかがいながら、それでもあっさりと続けた。
「カレーパン」
またも一瞬、その場の時間が停止した。
そして次の瞬間、ケンの表情が劇的に変化していったのである。自信に満ちあふれていたものから、恐怖に恐れおののく、それへと。
口にくわえていた安タバコが静かに落ちる。
「……あ、ワイ、買いモンの途中やってん。“スーパー大福”のタイム・サービスなんやねん」
その場で回れ右をして、一歩踏み出す。
「待たんかい」
その襟首を掴むチエ。
「は…放してんか〜。Lサイズの玉子が格安やねん。一人二パックまでやから――」
「あんた、いつから主夫になったの?」
すでに半ベソになっているケンに詰め寄る。
「かっ、堪忍してぇな――せやっ、“アンパン”であかんか?」
ケンは作り笑いを浮かべながら、ズボンのポケットからクシャクシャになったビニール袋を取り出して広げている。
「あかん」
その手をきつく払うと、チエは腕組みして、相手を睨んだ。
「なによ、偉そうなこと言って。そんなにカレーパンが怖いの?」
「しーっ」
必死になってチエを鎮めようとする。
「マジで大声はあかんて!」
「大きな声は地声よ。なんとかしてくれないと、もっと大きな声だって――」
「そないな無茶…………」
ケンは途方に暮れてしまった。
六階建てのビルの屋上である。
強い風の吹き抜ける中、チエとケンは、じっと立っていた。
「本当に、ここにその“仕事人”ってのが来るの?」
風に前髪をかき乱されて、チエは顔をしかめながら訊いた。
「せや。失礼があったらあかんで。なんせプロ中のプロやからな」
黄金のモヒカンに手を当てながら、ケンはおごそかに言った。
「よく、そんな凄い人と……」
真剣に感心して、チエはケンの顔を見つめた。
「ま、ワイの人徳やな」
得意げに胸を張ったその時である。
錆びついた鉄の扉が、きしみ始めたのだ。
「来たで。――ええな、言葉に気ィつけや」
コクリとうなずくチエ。ケンも緊張してか、ひとすじ、汗を垂らした。
「おまえさんがたかい?」
扉を開いて現われたのは、背の丈一九○センチはあろうかという無愛想な表情の三十がらみの大男であった。
右肩と両肘に厚手の革を縫い付けたグレーのジャケットと白いワイシャツ、そしてやや濃いめのこれもグレーのズボン、そのすべてが男の筋肉で、はち切れそうになっている。
「この“ビッグ・テツ”を呼ぶからには、大仕事なんだろうな? ハンパな依頼だったら、タダではすまさんぞ」
特徴的な長い顔と高い鼻、それと角刈りに濃いもみあげが二人に迫ってくる。
「へ…へい」
ケンは揉み手をしながら、愛想笑いで大男を迎える。隣のチエは深々と頭を下げた。
「実は、先生のお力をお借りして、ある物を手に入れたいと思いやして……へい」
「ある物?」
二人の目の前まで来て、仕事人は足を止めた。
「日本銀行の地下に眠る徳川の分銅金か?」
「い…いえ」
ケンが首を横に振る。
「ならば、次期自衛隊専用ロボットの設計図か?」
「いえいえ」
「ふむ。それなら――」
テツの太い眉が動く。
「内閣情報室のまとめた極秘UFO文書か?」
「……ちゃいまんねん」
しばしの沈黙。
「そうか、判ったぞ。この悪党どもめが」
やがて、テツが含み笑いを始めた。
「は?」
チエとケンの声が揃った。
「モー娘。の隠し撮り写真のネガだろ?」
「…………」
二人とも言葉を失った。
「いやー、あれは難物だぞ。事務所のガードが固くてなー。だが、手に入れればファン相手にひと財産築けるな♪ いや、それよりなにより、この私が欲しい!」
「……………………」
独り喋り続けるテツの顔を、チエもケンも、ただ黙って見上げていた。
「あの〜」
ややあって、チエが口を開いた。
「全然違うんですけどぉ……」
「何?」
期待に輝いていた仕事人の表情が、元の無愛想なものに戻った。
「違うのか…つまらん。――なら標的は何だ? 早く言え!」
あからさまに不快感を示した口調のテツ。ケンはその場を取り繕うようにヘラヘラと笑う。
「へ…へい。大きな声ではまずいので、先生、お耳を拝借」
「うむ」
促されてテツは腰をかがめた。その大きな耳に、チエが口を近づける。
そして――
「ぬわんだとお!?」
テツの大声が響き渡った。
「カ…カ…カ……」
仕事人の長い顔一面に青筋が立ち始めていた。眉間にも深い縦じわが現われ、全身が細かく震えている。
――ねー、怒ってんじゃない?
――かもしらんな。いざとなったら走るで。
チエとケンは、いつでも逃げ出せるように身構えながら、大男の姿を見守っていた。
「カレ〜パンらとお〜〜」
ところが二人の意に反して、テツは気の抜けた声とともにその場にへたり込んだのだった。
「へ?」「何?」
二人が見下ろすと、コンクリートの床に座り込んだ大男の股間から湯気が立ち上っていた。
「あわわわわわわわ…………」
唇をわなわな震わせるテツ。その目は焦点が定まらず、全身の震えも治まる様子はない。
「あー、バッチイなー」「ひょっとして、ワイより弱虫ちゃうか?」
失望の色を隠さないチエとケンであった。
「他に心当たりって、ないの?」
通りをスタスタ歩きながら、チエは訊いた。
「せやな〜」
隣を歩くケンは、考え込んでいる。
「あいつが、あかんかったとなるとな〜」
そこで二人揃って足を止める。
そしておもむろに振り返り――
「いつまでついてくんの、あんた!?」「せや! もー用はないで!」
二人を見下ろすように猫背でいる大男の姿がある。
「そうはいかん。このまま引き下がっては“ビッグ・テツ”の名折れだ。なんとしても君らの依頼に応えねば気がすまん」
不敵に笑う仕事人。
「強がり言ってもダメよ、ダメ」
「せやせや、そのカッコではな〜」
冷たく言い放つチエとケン。二人の視線は、テツの下半身に向けられていた。
グリーンの短パンから濃いスネ毛をたたえた脚がむき出しになっている。ジャケットとは見事なまでのミス・マッチであった。
「あ…」
二人の指摘するところに気づいたテツ。
「……こ、これしかスペアがなかったのだ」
言い訳がましく言う。少し顔も赤らんでいた。
「なら、さっさと帰ればいいでしょっ」
情けない大男を見捨てて、チエはふたたび歩きだす。ケンも従う。
「まあ待て、二人とも」
だが二人は歩みを止めない。
「プロの言うことは聞いておくものだぞ」
それでも足を止めない。
「密造人のアテがある」
ぴたっ。
チエとケンの顔色が変わった。
「いょうこそ、我が同胞よ! 人類最高の文化たる美食を追求するこの美食研究所に、よくぞ参られた。我らスタッフ一同、諸君らの飽くなき期待に必ずやお応えするであろう!!」
ワーーッ!
異様な熱気に包まれていた。
あたかもコロシアムのようにぐるりと客席の配置されたその中央、摺り鉢の底に当たる場所で、きらびやかな衣装に身を包んだ人物が、演説を行っている。
「かの美食家、“魯山人”も“志の忠”も、決して試みたことのない食材と料理。それがここでは可能なのだ!」
うおぉーーっ!
ふたたび歓声が沸き起こる。
客席の一角に陣取ったチエとケンは、ただただ唖然とするだけであった。
「へー、こないな所が、あってんか」
ようやくケンが口を開いた。チエはまだ押し黙ったままだ。
テツの案内で町外れの森に入り、その奥の古びた屋敷に連れていかれた。
何があるのかと思いきや、その地下にこのような大ホールが存在して、かような会合が開かれていたのだ。驚くなというほうが無理である。
「ここは、非合法な料理を鑑賞するための秘密の倶楽部なんだ」
テツが二人に言った。
「非合法?」
テツの声に、チエが屋敷内に入って初めて言葉を発した。なんだかんだいっても、テツの大柄な体は、それだけでも頼れる存在なのであった。
「ああ」
テツはうなずいた。
「法律や国際条例で禁止されている生き物を使っての料理を楽しむために、こうして金持ち連中の会費によって運営されているんだ」
その台詞に、チエは周囲を見回した。
着飾った老若男女が血走った目で、中央の人物の演説に声援を送っている。
自分たち三人の服装だけが浮いていた。
「禁止の生き物って……例えばどんな?」
テツの顔を見上げて訊く。
「究極のメニューはな…」
ひと呼吸置いて、テツは言う。
「人間だ」
ワーーッ!
歓声の中、テツの静かな言葉だけが、なぜか、はっきりと聴き取れた。
「…………」
「ホンマかいな? えげつなー」
言葉を失ったチエに代わって、ケンが訊きかえした。
「さすがに、それはVIP専用で、滅多に提供はされんがな」
テツも不愉快さを隠しもせずに語る。
「そ…そんな」
やっと気を取りなおしたチエが言う。
「そんな凄い会なら……」
「ああ。あれなど子供だましだろうな」
テツが勝ち誇ったようにニカッと笑った。
「さあ、我が研究所の誇る料理人に何を望む!?」
中央の演説家が、かたわらの高さ三メートルほどの人影を指して、観客たちに問いかけた。
「会員諸君のユニークなご注文を伺おう!」
おぉーーっ!
再度の大歓声。
「あれは?」
その大きな人影を指差してチエが訊く。
「研究所所長ご自慢の鉄人料理人28号さ。あらゆる料理をこなすロボットだよ」
テツの説明に目を凝らしてみる。なるほど、金属質の体をした二足歩行の人型ロボットのようである。
「なんでロボットなんや? こないでっかな会やったら、超一流のシェフかて雇えるやろに」
「万一のための対策さ」
ケンの疑問にも答えるテツ。
「最悪、検挙された時に、料理を実行したのは機械だと言い張るつもりなのさ。――まあ、通用する言い訳とは思えんがな」
その時、誰かが注文の口火を切った。
「パンダのフル・コース!」
すると他の誰かが続く。
「バカ言え! アフリカのビッグ5をテーマに!」
さらに次々と注文が飛ぶ。
「血統書付きの犬と猫だあ!」「いや、ぜひトキを食してみたい!」「イルカだ、シャチだァ!」
悪趣味な注文の数々に顔をしかめるテツ。
「フンッ、俗物どもが……」
「えらい活気やな〜。連中て、他に楽しみないんか?」
あきれた口調で、ケンが呟いた。
「まあ、大正頽廃的浪漫の再来というところかな」
「意味判って言ってる?」
気取っているテツに、チエがツッコミを入れる。
「……そ、それより」
ごまかすようにテツは言った。
「君もリクエストするのだ」
確かに、それが目的で、このような呪われた場所にまで足を運んだのだった。
「で…でもォ」
が、チエは躊躇した。
「なんか、すさまじいメニューばかり…。とても、あたしのなんて……」
無理はなかった。
「何を言う。せっかくここまで来たんだ。毒喰わば皿までとも言うだろう」
「せやせや。人生、積極的に生かなあかんで」
テツと、そしてケンもチエを励ます。
「ウン」
大きくうなずくと、チエは深く息を吸い込んだ。
「カレーパン!」
しーん……………………。
いきなり、会場が静まりかえった。
「へ?」
いわゆる水を打ったような静けさの中、全員の視線がチエたち三人の姿に注目している。
「な…なんや? なんか手違いとかあったんちゃうか?」「そんなはずは……ちゃんと入場許可は取ってある」
ケンとテツが言い争う中、チエはもう一度息を吸い込んだ。そして――
「カレーパン!!」
きゃ〜〜〜〜!!!!
次の瞬間、会場全体が蜂の巣をつついたような大騒ぎへと転じた。
頭を抱え喚きちらす者、手近な物をあたりかまわず投げつける者、グルグルと駆け回る者、四つん這いになって床を叩く者、席を蹴飛ばす者、殴り合いのケンカを始める者、ただただ泣き叫ぶだけの者……等々。
さらに、会場中央でも変化が起き始めていた。
「何!?」
所長のかたわらのロボットがガタガタと震えだしたのだ。
「どうした、鉄人料理人28号?」
主人の問いかけには答えず、ロボットは右手に持っていた巨大牛刀を、いきなり水平にないだ。
「うわぁっ、何をする!?」
辛うじて不意打ちをかわした所長。
だが、所長ご自慢のロボットは、手当たりしだいに会場の設備を破壊していく。そして、破壊しつくすと客席に場所を変え、破壊活動を続けた。その行動に次々と巻き添えになっていく会員諸氏。
「いかん! 今の言葉で電子頭脳が狂ったか。――やむをえん。出でよ! 鉄人料理人FXよ!!」
指を鳴らす所長。その合図に応じて、壁の一部が開き、中からもう一体のロボットが出現した。右手に巨大な中華包丁を持っている。
「28号を止めるのだ! 行け! FX!!」
所長の命令を受け、中華包丁のロボットは暴れ回る牛刀ロボットに近づく。
敵の存在に気づいた28号は、右手の武器を構えて向きなおった。そこに急接近するFX。
両者の得物が火花を上げてぶつかった。
巨大牛刀と巨大中華包丁の刃ぜり合いである。
「逃げなあかんのちゃうか?」
「しかし、これだけの闘い、そうは目にできんぞ」
「そ…それより、カレーパンはどーなるの?」
大混乱の中、チエたち三人は、なすすべなく立ちすくんでいた。
ぴゅーっ。
28号が、左手人差し指から、タバスコ・ソースを放出する。FXの光センサーにかかり、動きが鈍った。やむなく後ずさりするFX。
「負けるな! やりかえせ!」
所長の指示に、FXも左手で対戦相手を指差す。
ぶしーっ。
豆板醤が放物線を描き、28号の頭にかかる。振り払おうと首を激しく動かす。
そこへ追い打ちをかけるようにFXは刻みニンニクの群れを投げつけた。それを右手の牛刀の刀身で受けながら、28号は生クリームの瓶をぶつける。
返す刀で、生姜の絞り汁を撒き散らすFX。
「ガキのケンカやな〜、まるで」
「そうでもないぞ。通好みの闘い方だ」
「あの〜、カレーパンは?」
逃げ惑う会員たちの波の中、相変わらず、三人は立ったままであった。
と、28号の肩のあたりから、煙が立ち上り始めた。
「何?」
所長が見つめる。FXの首の付け根からも煙が上がっている。
「いかん! 間接部から体内に調味料が……爆発するぞ!!」
どっかあん!
その言葉を待たずして、二体のロボットは、はじけてしまったのである。
「形あるもの必ず滅す。しかし、こうもあっさりと我が研究所が最期を迎えるとは……まさに盛者必衰」
瓦礫の山となってしまった屋敷のなれの果ての上にポツンと立った所長は、真っ赤な夕日に向かって、あたりはばかることなく涙を流していた。
その後ろ姿を離れて見つめる三人組。
「なんか哀れやな」
「いや、悪行の報いというヤツだろう」
「ねー、カレーパンは?」
「ここがのうなって、どないなんねん?」
「少なくとも、これ以上食材にされる“行方不明者”は出なくなる」
「だからァ、カレーパンはァ?」
そんな時である。遠くからサイレンの音がしたかと思うと、すぐに近づいてきたのである。
三人と所長が振り返ると、何台ものパトカーが屋敷の敷地内に走り込んでくるところだった。そして、制服警官たちが次々と車から降りてくる。
「全員動くな!」
警官たちは拳銃を構え、怒鳴った。
「へ?」
チエたちがあっけに取られる中、警官たちの言葉は続く。
「一一○番通報があった! カレーパンを求めた者がいるそうだな。誰だ!?」
「こいつ」
所長がチエを指差す。
「です」
テツがチエの両肩を叩く。
「ねん」
ケンがチエの背中を押す。
押された勢いで警官隊の真ん前まで出てしまうチエ。
「へ? いや、あの〜」
「判決」
被告人席のチエに、厳かに判決が言い渡される。
「死罪。斬首の上、獄門申し渡すものなり! 引っ立てい!!」
「しょ…しょんなあ……」
有無を言わさぬ決定であった。
「なんで、こーなるのよ……」
執行の日を獄中で待つチエは、絶望に打ちひしがれていた。
「これじゃ死んでも死にきれないよォ。お爺ちゃぁん、マコォ…………」
チエの目から大粒の涙がこぼれたその時である。
どかん!
いきなりの爆風に、チエは床に転がってしまった。
「こっ、今度は何!?」
煙の中に何かが立っていた。
四つん這いのまま、おそるおそる近づいてみる。狭い牢獄の中なので、すぐにその姿が判った。
「恐るる事あらず。我、汝の守護佛也」
目の前にいるのは、神々しい光を放つ千手観音であった。
「ウチ、神道なんだけど。『かしこみかしこみまもうす』って」
根の正直なチエは、思わず口走ってしまう。
「……このまま帰ったろか?」
観音の額に青筋が浮かんでいた。
「あ…いえ! お寺も大好きでぇす♪」
「…………」
しばし見つめ合う両名。
「…まあよい。コホン。――人間の法とは、まっこと愚かなもの也」
口調を戻した観音様は続ける。
「安心せひ。汝に罪は無ひ。よって、佛が汝を助けてやろふ」
「本当ですか!?」
チエは目を輝かせて観音様を見上げた。慈悲深い笑みをたたえてうなずく千手観音。
「あ…でも……」
ふと、チエの顔色が曇る。
「何か?」
観音様が尋ねる。
「あたしだけ助かるわけには…………」
観音は察していた。
「汝の祖父は天寿也」
「そう…ですか」
がっくりと肩を落とすチエ。そんなチエに、観音様は優しく語りかける。
「されど佛の慈悲はあるぞえ。――ささ、善は急げ也」
チエを促して立たせると、観音様は数本の腕でチエの体を包み込んだ。
次の瞬間、二人の姿はかき消えていたのである。
観音様に伴われたチエは、空と雲と水と緑の美しい不可思議な世界に身を置いていた。
「きれい……」
思わず声がもれる。
「此処、隠れ里也」
観音様が言う。
「隠れ里?」
チエの声にうなずく。
「此処なれば邪魔は入らぬ。此処に住まふ食仙に、かれひぱんの作り方を学ぶがよひ」
「食仙? 学ぶ?」
ふたたびうなずく観音様。
「間に合ふよふに、急ぐのじゃぞ」
その言葉を残し、千手観音はスッと消えていったのである。
そして――
獄中の死刑囚が消滅したとか、処刑手続きやら名簿やらをごまかすのにこっそりと書類を何枚も作りなおしたとか、担当の看守がクビになったとか、その元看守が雑誌社に話を持ち込んだとか、それが特集記事になって世の好事家たちの話題になったとか、常識人たちとの間で激論が交わされたとか、そういった事柄は、チエの知ったことではなかった。
そしてそして――
「おらおら! しゃんとせい!!」
隠れ里じゅうに野太い怒鳴り声が響き渡る。
「もっとしっかり腰入れねーと、いい生地はこねられねーぜ!」
スキン・ヘッドに髭もじゃの人物が、煙管片手に、厳しい表情をしている。
その視線の先には、広い台に置いたパン生地を両腕で必死にこねているチエの姿があった。ハチマキをした額に汗を滲ませながら、全身全霊をかけて力を加えている。
「ダメだダメだ! 何度言ったら判るんでい!?」
カンッと煙管を打ちつけて立ち上がると、その人物、食仙はチエの手から生地を取り上げてしまった。
「こいつは、もう使い物になんねえ。初めっから、やりなおしだ!」
「ええーっ?」
ガックリとした表情のチエ。もう何十、何百、いや、何千回やりなおしたことだろうか。
「なんだ、その目は? この食仙に習う以上、完璧なカレーパンを作るまで許しゃしねーかんな!!」
はっきりと言われてしまう。
――いつになったら、カレーパンが手に入るのよォ。
そう思いながら、チエは何千回目かの粉に水を加え始めていた。
そしてそしてそして――
崩れかけた東屋に、今宵も人の声が響いていた。
「お爺ちゃん、しっかりしてくだしゃいよ。お姉ちゃんは、しゅうぐ戻りましゅからねえ」
雑草の生い茂った座敷の中で、白髪のオカッパ頭にボロボロのオーヴァーオールを着た老婆が言った。
その声に応えるかのように、かろうじて布団の形を保っている綿のゴミが動いた。続いて、それにくるまっている半ばミイラ化した人体の口の部分が、かすかに動く。
「すまんのう、マコや。なんせ、カリーパン喰うまで、死ぬわきゃいかんでのう…………」
隠れ里の数日は、うつし世の数十年にもなろうか。
おしまい。
なんでカレーパンが禁止されたかってツッコミはご勘弁。投稿用の長編のネタなもので。っても、まだ、まとまってないんですけどネ……。
2001.3.23.
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