魔物召還の一幕


作 妖之佑

 
 
 
 
 ――始めるぞっ。
 サトルは新品のペーパー・ナイフを右手に持ち、光を象徴する東を向いた。
 目を刺す香の煙に顔をしかめる。鼻につくのは塩の匂い。先に撒いた聖水のものだ。
 だが乱れたのは一瞬。すぐに気を引き締めなおした。
 心の中に、輝く太陽を描き、目の前まで招き寄せる。そして、眼前の黄金色の球体に、ナイフの切っ先を触れた。
 光の力がナイフを伝わって自分の体を通るのを感じつつ、サトルはナイフで宙に十字を切った。いわゆるカバラ十字である。
 続いて東を向いたまま宙に召還の五芒星を描いた。
 その星の中心に切っ先をすえ、聖なる名を口にする。
 そして、次に南を向き、同じく五芒星を描き、聖なる名を唱える。
 さらに西、北と、同様の行為を行った。
 再度、東向きになり、最初に描いた、そして今も宙に浮かんでいる五芒星の中心に切っ先を当てる。
 いつも、ここでつまづいていた。一周している間に、最初の東の星印が消えてしまうのだ。妄想には自信のあったサトルでも、その妄想を維持し続けるのには、かなりの集中力を要したのだ。
 だが、今は大丈夫だった。
 サトルは両腕を水平に上げ、自らを十字架にして、唱える。
「我が前方にラファエル、我が後方にガブリエル、我が右手にミカエル、我が左手にウリエル」
 精霊たちの名を唱え終えると、ふたたびカバラ十字を描く。
 そして、東に向かって退出の五芒星を描いた。
 そのまま、召還の五芒星を描いたのと同様に南、西、北と描いていく。
 一周し終えて、ようやく小儀礼が終了した。
「ふう…」
「気を抜かないで。これからよ」
 それまでずっと部屋の隅で見守っていたナオミが小さく言った。
 ――判ってる。
 そう目で答え、サトルはひとつ深呼吸をした。
 今の小儀礼で、この部屋全体が聖なる場所となった。邪悪なるものは、ここではその力を発揮できない……はずだった。
「迷いは禁物よ」
 すかさずナオミが指摘する。サトルのかすかな惑いを見抜いていたのだ。
「…………」
 少しふてくされた顔のまま、サトルはあらためて自分の周囲を見回した。部屋の床に描かれた魔法陣の中である。
 ――よしっ。
 小脇に抱えていた分厚く重い書物を開く。
 ナオミが貸してくれた『ソロモンの大鍵』の写本である。
 中身は訳の判らない横文字。ラテン語だそうだ。当然、サトルには読解などできない。
 必要な部分のみをナオミから教わり、意味を頭に叩き込んだ。要するに付け焼き刃だ。
 それでも、サトルには自信があった。昔から暗記はお手の物だったのだ。
「Omnipotens Aeterene Deus,Qui totam Creaturam condidisti in laudemet honorem tuum,…………」
 気の遠くなるような長い呪文を延々と唱え続けた。
 途中で休むことは許されない。一度始めたが最後、きちんと終わりまで成し遂げなければならないのだ。
 途中、呪文の合間合間に香を追加しながら、詠唱は続いた。
 やがて、何時間か経った頃、不意に部屋の空気が変化した。
 ――!?
 一瞬、サトルの心が震えたが、ナオミの忠告を思い出し、呪文に集中する。
 しばらくすると、部屋の隅、ナオミのいる所とは反対側に煙の塊のようなものが現われた。
 そして、床を這うようにして、魔法陣の外枠まで来た。無論、そこから中には入れない。
「何者だ?」
 努めて強い口調で問い正すサトル。
 だが答えはない。
「答えよ、何者だ?」
 再度訊く。
「うるせーよ」
 突如、床ばかりか地面をも振るわせるような低音が響いた。煙の塊が声を出したのだ。
 サトルは背筋が凍る思いだった。それでも、意識して強気を維持した。
「僕の召還に応じて来たのだから、答える義務があるぞ」
「バカ言ってんじゃねーよ。召還だぁ? 笑わせるない。俺が勝手に来たんだよ」
 言いながら、その煙は少しずつ形を持ちつつあった。
「か…勝手にって……」
 口ごもるサトル。
 ――相手のペースに巻き込まれないで。ペテン師や詐欺師を相手にしていると思いなさい。
 頭の中にナオミの声が聞こえた。
 そういえば不思議だった。ナオミは部屋の隅、つまり魔法陣の外にいるのだ。にもかかわらず、目の前の煙の塊――おそらくは魔物だろうが――は、ナオミに気づきもしない様子だったのだ。
「ちいとばかり読みかじった知識でよ、この俺、地獄の大魔王様をどうにかできると思ってやがったのかぁ!? このガキぃ」
 だんだんと人の形になりつつある煙が、言う。
「俺様をバカにした代償はでかいぜ。きちんと払ってもらうからな!」
「つ…強がりはよせっ。おまえはこの円には入ってこられない。どんなに脅そうとも、僕の体には何一つ悪さをできやしないんだ。そうだろう?」
 ハンカチを取り出し、汗をふきながら必死になってツッパる。
 と、そんなサトルを笑う大声。
「かっかっかっ。ガキのくせに頑張るじゃねーか。気に入ったぜ。てめーの魂を今夜のおかずにしてやる。味はまあまあ旨そうだからなぁ」
 膝が震え始めていた。だが、ここで片膝をつくわけにはいかない。相手をつけあがらせるからだ。
「できるなら、やってみろ。その前におまえに聖なる風を当ててやろう」
 サトルは必死に言った。
「せ…聖なる風だとぉ? 嘘を言うんじゃねえよ」
 その言葉とは裏腹に、相手は少し躊躇している。
「嘘かどうか、今に判る」
 そのまま、サトルはナオミに習ったとおりに息を相手に吹きかけた。
「ぐっ、ぐわあああっ!!」
 魔法陣越しに、人の形になりつつある煙の塊に届いた息。その息に面白いように反応する相手。
 ――いけるっ。
 そう思い、サトルは続けた。
「ぐっぐっぐわあああっ、やめてくれぇぇぇっ」
 もがき苦しむ魔物はそのまま床に丸くなってしまう。
「なら言うことを聞くか?」
「…………」
 かすかな声で応える魔物。
「聞こえないぞ」
 サトルは耳を近づけた。
「…………」
 何か言っているのだが、やはり聞こえない。
 もっと近づくために、魔法陣のきわまで行き、しゃがんで相手に顔を近づける。
 と――
 突如、煙が形を取った。角と牙と剛毛で飾られた明確な魔物の形を。
「うわあっ!」
 眼前に現れた邪悪な顔に驚いたサトルは、思わず持っていたハンカチを落とした。それは、結界である魔法陣の外円のラインをおおってしまったのだ。
「貴様の魂、もらったぞ!!」
 魔物はハンカチを踏み越えて魔法陣に進入し、サトルに掴みかかった。
 が――
「ぎゃああああっ」
 悲鳴である。それもサトルではなく、魔物のほうが悲鳴を上げたのである。
「曩莫三曼陀 婆沙羅陀 扇陀摩訶呂紗那 娑婆咤婆 吽多羅多観曼」
 両手で印を結んだナオミが呪文を唱えている。真言という密教の呪文だ。
「バ…バカなっ……いつの間に、そんな所にウィッチが!?」
 魔物がそのおぞましい本性を現わしながら苦しんでいる。
「阿毘羅吽見娑婆訶!」
 そう唱えたとたん、魔物は動きを止めた。凍りついたかのように。
 しかしナオミは攻めを止めはしない。
「臨ッ兵ッ闘ッ者ッ皆ッ陣ッ裂ッ在ッ前ッ」
 指で空中に格子目を切っていく。
「おっ…憶えておれぇっ、こ、この…………」
 だが、皆まで捨て台詞を言うことなく、魔物は自らの発する闇の中へと消えていったのである。
 しばらくの沈黙があった。
「奄鬼哩鬼哩……………………もういいわ。サークルから出ても」
 やがて親指の爪を弾いたナオミが、腰を抜かしているサトルに声をかけた。
「ど…どうして……?」
 訊きたいことはあったが、言葉にならなかった。
「なぜ悪魔に密教の真言が効いたのかって訊きたいの?」
 ナオミが代わって質問を言葉にした。必死にうなずくサトル。
「大切なのは、自分の精神力よ。魔物に惑わされたり怯えさせられたりしないだけの。教えてあげたでしょ?」
 床に落ちていた魔導書を拾い上げるナオミ。
「土台さえちゃんとしてれば、西洋の魔物でも、東洋のやりかたで扱えるのよ。今の不動金縛りでもね」
「不動金縛り…………?」
 聞いたことのない名称に戸惑うサトルである。そもそも仏教になど興味がないのだから当然だった。
「求聞持聡明法を習得すれば何でも扱えるわ。アブラメリンの魔術でも同様の成果が得られるけどね。要はアカシック・レコードにアクセスできるようになればってコト」
“アブラメリン”と“アカシック・レコード”という二つの名称に、サトルが反応した。
「そっ、それを教えて!」
 辛うじて声にしたサトルの望みを、しかしナオミは一蹴した。
「何も判ってないのね、君。まず土台造りをしっかりしなくちゃ、無意味なの」
 冷ややかに見つめるナオミの目。
「求聞持聡明法はかなりの修行を積んだ天台のお坊さんが取り組むもの。アブラメリンの魔術は、あのアレイスタ・クロウリーでさえ一度失敗して、命を落としかけたほどに危険なもの」
 そう言ってじっとサトルを見つめてから、すっと目をそらす。
「どっちにしても今の君じゃ、とても耐えられないわ」
 そして、ナオミはドア・ノブに手をかけて言った。
「まずは基礎鍛錬に集中することね」
「わ…判ったよ。そうすれば、今みたいな大物を、僕でも相手にできるんだね!?」
 希望に燃えるサトルの表情。しかし、ナオミの目は冷たかった。
「ああ、あれ?」
 そして、出ていきざまに言い残す。
「あんなの、下っ端もいいトコよ。ただのザコ」
「え…………?」
 ぽかんと口を開いたサトルだけが、その部屋に残されたのである。

 
 
 
 
天使

 
 要するに、仮免でフルチューン・マシンを駆っても事故るだけってコトで♪
 
2002.9.14.

 
天使

 
 
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